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コロナ時代の武器に。医療健康データ持ち歩く「PHR」のすべて

医療データは誰のモノ―PHRの可能性―#01
コロナ時代の武器に。医療健康データ持ち歩く「PHR」のすべて

医療健康データを生活者自らが持ち歩く未来はくるか

スマートフォンなどで診療情報を確認して治療について理解を深めたり、薬局などに示して健康状態を正確に伝えたりできるツールを生活者に提供する医療機関がじわり広がり始めた。PHR(パーソナル・ヘルス・レコード)という仕組みで、血圧や歩数といった毎日の健康データも記録でき、利用者は自らの健康管理に生かせる。医療機関はPHRによって診療情報を適切に開示することで、生活者との信頼関係を醸成したりコミュニケーションを円滑にしたりして他の医療機関と差別化する狙いがある。

政府も高齢化が進展する中で、予防医療(※1)を推進する要としてPHRを重要視する。新型コロナウイルス感染拡大の経験を踏まえて、今後新たな感染症が発生した際などに、医療機関などが個人から正確に健康情報を収集できるツールとしても期待する。行政手続きができるウェブサイト「マイナポータル」をPHRに見立てて活用できるシステムの整備を急ぐ。

一方、利用拡大に向けては課題が山積みだ。国民の健康意識の低さという根深い問題もある。生活者自らが医療・健康データをスマホで持ち歩き、利活用する未来は来るか―。(取材・葭本隆太)

診療情報を返して信頼関係を築く

「あなたの診療情報を手元で管理しませんか」―。愛知県一宮市にある総合大雄会病院。南館1階の一角にはPHRシステム「カルテコ」の利用を促す窓口がある。自ら医療・健康データを持ち歩き、積極的に医療に参加するよう患者に呼びかける。

総合大雄会病院内に設置された「カルテコ」の利用を促す窓口

カルテコは、生活者がスマホなどを通して病院で受けた検査の結果や検査画像、処置内容、処方された薬などを閲覧できる。アレルギー情報や病歴のほか、毎日の血圧や血糖、体重などを自ら記録できる。導入を推進した高田基志副院長は「医療は(医者が提供する)一方的な行為ではありません。患者の協力があって初めて治療は進みます。そのため(医療・健康データを手元に持って)自ら健康を気遣うことが第一歩になります。(診療情報の提供は)医師が患者との信頼関係を築く上でも大事です」と力を込める。

導入の背景には“顧客”を囲い込む狙いもあった。高田副院長は「カルテコの導入によって患者とのエンゲージメントを高められる期待がありました。周辺地域に似た機能を持つ病院が複数ある中で、差別化のツールになると考えました」と明かす。

石川県七尾市の恵寿総合病院は17年9月に「カルテコ」を導入した。同病院を運営する董仙会の神野正博理事長は「QOL(クオリティー・オブ・ライフ)の『ライフ』を『人生』と捉えると、病院の医療は全体の一部に過ぎません。(QOLを高めるには)PHRを軸に生活の場などでも(医療・健康の)情報を共有する必要があると考えました。薬局やフィットネスクラブ、他の医療機関で個人の意志に基づいてPHRを提示すれば、それぞれの場所で適切な診療や指導が受けられます」と導入の背景を説明する。

同病院グループでは総合病院から介護・福祉施設まで運営しており、系列の各施設は「1患者1ID」で情報を共有している。ただ、系列の施設だけでは生活の場すべてをカバーできていない。そこで医療・健康データを持ち歩けるカルテコによって情報共有を目指した。

総合大雄会病院の高田基志副院長(左)と董仙会の神野正博理事長(右)

「カルテコ」を運営するメディカル・データ・ビジョン(MDV)の岩崎博之社長は「PHRの導入に投資する病院はまだ少ないですが、診療情報を患者に返して信頼を醸成する意識は確実に広がっています」と話す。17年の提供開始以来、これまでに全国で7つの医療機関が導入した。「(医療機関がこぞって導入するような)雪崩を起こすためにはコツコツ増やしていくしかありません。医療機関は横並びの意識が強いため導入が30件を超えると一気に増えると見ています」(岩崎社長)。

東京都港区の東京都済生会中央病院が導入したPHR「マイホスピタル」を運営するプラスメディ(東京都新宿区)の永田幹広社長兼CEOも「若い医師などを中心に『医療データは患者のもの』という考え方が19年初めころから浸透してきており、今では半数以上(の医療機関)がそうした認識を持っているように感じます」と説明する。

医療情報の主権が患者に移る

生活者がPHRを持つ意義としては3つのキーワードの実現が上げられる。「患者主権」「情報共有」「生活習慣病の予防」だ。九州大学病院メディカル・インフォメーションセンターの中島直樹センター長は「患者主権」の重要性を強調する。

「PHRによって医療情報の主権が患者に移ります。今は医者が開示しないと、アクセスできない状況があります。かつては『パターナリズム』で、極端に言えば医者主導の医療がありました。現在は患者が主体。医者はしっかりした説明を行い、患者に選択肢を与えて医療の決定をサポートする役割が重要視されており、PHRはそのキラーツールになります。患者主権は医療費の削減にもつながります。人は他人が決めたことよりも自分が決めたことを守りますから。薬の飲み忘れが減ったり、食事療法を守ったりするということが分かってきています」

「情報共有」をめぐっては、地域の複数の医療機関がネットワークを通じて患者の医療情報を共有するシステム「EHR(地域医療情報連携ネットワーク)」が全国約250カ所にあり、PHRはそれをカバーする役割などが期待される。医療情報システム開発センター(東京都新宿区)の山本隆一理事長が解説する。

「病院と診療所は機能分化されており、診療所ですべて終わらず、高度な検査が必要な場合などは病院にかかり、そしてまた診療所に戻ります。その中で、患者の医療情報の共有が必要になります。方法は地域の医療機関同士がネットワークを組むか、PHRによって患者が持ち運ぶか。前者は実現すれば効率がよく高度に連携できます。ただ、競合する民間企業すべてがまとまることは簡単ではありません。そこで、PHRによって患者がデータを持ち運べば医療機関同士が連携しようと思わなくても最低限の情報共有ができます。高度な医療連携はEHR。PHRはEHRの隙間を埋めたり(情報共有の)底辺を持ち上げる。両面で支えるのが理想でしょう」。

もっとも、EHRは運営費などの問題で頓挫したケースは多い。日本医師会総合政策研究機構の担当者は「(EHRは行政の)補助金を背景に11年ころから(システム構築が)劇的に進みましたが、運用費がまかなえないといった理由で(12年度から継続調査している154カ所のうち)4割以上の地域で継続されていません」と指摘する。このため、一部の民間PHR事業者は「EHR」の代替ツールとしての提案も模索している。

PHRを通した情報共有は患者に直接の利益ももたらす。例えば、ある症状に関する検査結果をPHRで持ち運べば、同じ症状で別の医療機関を受診した場合の重複検査が避けられる。出張したり引っ越ししたりした際もその地域の医療機関に自分の健康状態を的確に伝え、適切な医療を受けるツールになる。救急搬送時も同様だ。

アプリの助言で糖尿病が改善する

PHRは、生活者自ら記録する健康データも価値を持つ。医師の診断に生かせるほか、PHRアプリの助言による生活習慣病の重症化予防なども期待される。実際に東京大学大学院医学系研究科の脇嘉代准教授はNTTドコモと共同で行った臨床研究で、糖尿病歴5年以上の患者を対象にPHRの効果を明らかにした。

写真はイメージ

脇准教授らは血圧や歩数、血糖値、毎日の食事内容などをスマホアプリに登録すると、そのデータを基に自動で助言したり、医師に連絡して個別指導につなげたりできるシステムを開発し、利用効果を検証した。その結果、糖尿病の判定の目安になる「HbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)」や「空腹時血糖値」の値が有意に下がった。

脇准教授は「健康状況が可視化され、生活者自らが(自分の健康状況を)客観視できた上で適切な介入が行われると効果が現れます。介入は必ずしも人によるものである必要はなく、アプリによる自動の助言でも一定の効果はあります」と説明する。

導入拡大を阻む医師の反発

一方、PHRの普及は一筋縄ではいかない。診療情報を患者に返すことに対する医師の反発はハードルの一つだ。「医師にとって診察した患者の診療情報がどこの誰に見られるか分からない状況はプレッシャーになります。訴訟リスクなどを想定し、抵抗感を抱く人はいます」(医療業界関係者)という声が漏れる。実際にPHRシステムを導入したある医療機関の幹部は、導入時に現場の医師から反発があったことを明かす。

「(他の病院が導入しない中で)なぜ我々の病院だけ(PHRを)導入するのかという反応はありました。患者がどう扱うのか心配しているのです。そこは患者と信頼関係を築き、公明正大な医療をしていれば決して問題にはならないと説明して渋々納得してもらいました」

診療情報を蓄積するPHRには医師の反発も…(写真はイメージ)

さらに解決が難しい課題として「コスト負担の所在」と「生活者の健康意識の低さ」が上がる。前出のカルテコの場合、医療機関の多くはシステム投資のリターンとして他の病院との差別化効果を期待する。ただ、総合大雄会病院の高田副院長は「PHRという概念が認識されておらず、生活者の健康意識が低い現時点では、それほど患者にメリットを感じてもらえてはいないでしょう」と実感を語る。

総合大雄会病院には1年に約8万人の外来患者が訪れるが、カルテコ登録者は8000人程度にとどまる。診療情報を手元に保管して自分で健康管理しようという患者は決して多くないのが現状だ。PHRに対して個人情報の漏洩につながる可能性を懸念する人もいる。現場の医師の心理的障壁も鑑みれば、医療機関のPHRシステムに対する投資意欲は沸きにくい。ともすれば、医療機関によるシステム導入が一気に進むとは考えにくいというわけだ。

本来の姿は保険者負担?

では、誰が費用負担するのが適切か。総合大雄会病院の高田副院長と董仙会の神野理事長は「PHRの費用は(健康保険組合などの)保険者が負担するのが本来の姿」と声を揃える。PHRの導入によって組合員の予防行動が促されて医療費が抑制されれば、健保財政の健全化に貢献するからだ。医療機関としての差別化よりも直接的なメリットと言える。「費用負担の主体が医療機関だと健康な人には使ってもらえませんが、保険者であれば国民すべてが持てます。最適な案ではないでしょうか」(九州大学病院の中島センター長)という指摘もある。

ただ、「生活者の健康意識の低さ」という課題は立ちはだかる。保険者による導入は健康な人に利用を促す機会を生むが、健康な人ほど自身の健康は意識しにくい。翻って生活者がPHRを使い始める可能性は、医療機関を受診したタイミングの方が高いとも想定される。

MDVの岩崎社長は「生活者の健康意識の低さを現実的に変えられるとすれば、病気になったとき。そこで初めて健康を真剣に考えます。そのタイミングで(PHRを使って)診療情報を返して生活者の意識に働きかけることが重要ではないでしょうか」と強調する。

マイナポータルは突破口になるか

「国民が自身の保健医療情報を閲覧・活用できる仕組みの整備について速やかに取り組む」―。政府が7月にまとめた「新たな日常にも対応したデータヘルスの集中改革プラン」の一節だ。マイナポータルをPHRに見立て、個人が自身の医療・健康情報を閲覧したり、活用したりできるシステムの整備を始めた。

政府は高齢化が進展し、医療財政が一段と厳しくなる中で、予防医療を促すツールなどとしてPHRを重要視する。新型コロナウイルス感染拡大の経験を踏まえて、今後新たな感染症が発生した際に、医療機関などが本人から正確な情報を収集し、健康状態をフォローアップするツールとしても期待する。21年には特定健診情報やレセプト(※2)に記載された薬剤情報を閲覧・活用できるようにする。22年以降には手術や移植、透析に関わるデータも対象にしていく。民間のPHRサービスとAPIでつなぐ体制の整備も進める。

こうした動きはPHR普及への突破口として期待される。複数の業界関係者からは「(9月時点で約2割に留まる)マイナポータルの利用に必要なマイナンバーカードを作ってもらうこと自体が課題」や「蓄積が予定されている情報の内容でできることは限られている」といった指摘は上がるが、それでもまず、生活者が医療・健康データを活用できる環境が整備される意味は大きい。医療情報システム開発センターの山本理事長が強調する。

「予め医療・健康データが入っている“ノート”をすべての人に提供できる意義は大きいです。そうした仕組みは今までありませんでした。データが蓄積されていくこと自体は意識していなくても(医療機関を受診するなど)何かのきっかけで“ノート”を開いたときに、それまでの情報を閲覧したり利用したりできれば、そこでPHRが生活者に認識されるようになります。(PHR普及への)大きな転換点になるのではないでしょうか」

意識の低さは教育問題

PHRの普及とその前提となる生活者の健康意識の低さの改善は、息の長い取り組みになる。特に健康意識の低さは根深い。背景としては国民皆保険制度の存在が指摘される。「国民皆保険制度によって日本は特に患者が支払う医療費が安いため、自ら健康を管理せず、病気になれば病院に行けばよいと考えています。例えば、歯医者も欧米は(医療費が高いため)虫歯にならないように行きますが、日本人は虫歯になってから行きます」(医療業界関係者)という状況だ。

こうした認識は、一朝一夕に変わらない。義務教育レベルの働きかけが不可欠という声も上がる。患者の主体的な医療参加を目指すNPO法人ささえあい医療人権センターCOML(大阪市北区)の山口育子理事は「子供の頃から教育しなくては健康意識の向上は難しいでしょう。『教育なんて根本的な対策が必要なのか』と言われますが、確実に効果は出ます。例えば喫煙者は(たばこの害悪などを教育で伝えた結果、)減っています」と強調する。

一方で、各種調査(※3)はコロナ禍をきっかけに生活者の健康意識は向上したと指摘する。PHRによって生活者はどのようなメリットが得られるのか、強く訴えるべきタイミングとも言えそうだ。

※1予防医療:病気の発症を未然に防ぐ取り組み。具体的には、体重や食生活を適切に管理して生活習慣病を防ぐことなどが上げられる。発症後に治療を始めるよりも医療費を抑えられ、発症しても治療期間が短くなる場合が多いとされる。
※2レセプト:医療機関が健康保険組合に医療費を請求するために、診察で行った処置や使用した薬剤などを記載した明細書のこと。
※3健康意識の向上を示す各種調査:明治安田生命が8月に行った調査では45.1%の人がコロナ禍を機に「健康への意識が高まった」と回答した。マクロミルが6月に行った調査では緊急事態宣言が解除された後の健康意識について42.5%が「高まった」と回答した。

民間PHR市場の現状は

PHRの概念は幅広い。本文でテーマの中心とした「カルテコ」や「マイホスピタル」のように診療情報の蓄積を核としたサービスのほかに、毎日の健康データの可視化を中心としたサービスもある。スマートウォッチなどに付帯するアプリも含まれる。そうした市場の現状や展望について、ヘルスケアビジネスに詳しい三菱総合研究所ヘルスケア・ウェルネス産業グループの古場裕司グループリーダーが解説する。

「スマートウォッチなどの浸透状況を踏まえると、PHRは身近になってきたと言えます。ただ、(PHRを提供する)各社のアプリが扱っているデータの形式などがバラバラで誰かが一元管理してくれている状況でもありません。メーカーの壁を越えられないのはPHRが普及しない一因でしょう。また、ヘルスケアの領域は収益化が難しい。健康な人ほど危機感を持てないので、顧客として無関心層を取り込んだり、サービス利用を継続してもらったりする点に課題があります。PHRの利用は、子供のアレルギー情報を蓄積して保育園や救急時に共有するといった万が一には命にも関わるような極端な需要を取り込むところから広がるのではないでしょうか」

一方、広義のPHRアプリは乱立している中で、複数の業界関係者は「どれが本当に適切なPHRなのか選ぶ手段がありません。信頼できる評価システムがなければ一般的な普及は難しいでしょう」と指摘する。

【連載・医療データは誰のモノ】
 #01 コロナ時代の武器に。健康医療データ持ち歩く「PHR」のすべて(10月6日公開)
 #02 【日本医師会の主張】PHRの価値と懸念(10月7日公開)
 #03 三井住友FGが認めた医療アプリの正体(10月8日公開)
 #04 医療問題噴出の「2025年」迫る。地方行政たちの悪戦苦闘(10月15日公開)
 #05 糖尿病やアトピー、患者同士の交流アプリが医療を変える(11月5日公開)
 #06 医療相談アプリに信念。元心臓外科医が考える遠隔診療の構造的問題(11月11日公開)

ニュースイッチオリジナル
葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
多様な種類があるPHRの中で診療情報を管理できるサービスを中心に取材しました。生活者が直接的なメリットを最も得られると思ったからです。別の医療機関による二重検査が避けられたり、セカンドオピニオンも受けやすくなったりする期待があります。PHRの普及に向けては厳しい意見も多いですが、自分で自分の健康を守る必要性は高くなっていく気がしますし、その際の重要なツールになると思います。董仙会の神野理事長はこう強調していました。「日本経済は低迷し、コロナ禍で大きな財政支出もある中で、社会保障財源は果たしてもつでしょうか。私は自分の健康に自己責任をもたざるをえない世の中に必ずなると思います」

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医療データは誰のモノ
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生活者がスマートフォンなどを通して病院の診療情報や毎日の健康データを閲覧したり、活用したりする「PHR」がじわり注目を集めています。他の病院や薬局に開示してより適切な診療や指導をうけるほか、PHRに蓄積された医療・健康データに基づき、最適な生活サービスを提供しようという動きも出始めています。PHRをめぐる動向を追いました。

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