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医療問題噴出の「2025年」迫る。地方行政たちの悪戦苦闘

連載・医療データは誰のモノ #04
医療問題噴出の「2025年」迫る。地方行政たちの悪戦苦闘

各自治体は住民の健康増進など後押しする独自施策を展開している

「2025年問題」―。1947―49年生まれの「団塊の世代」が75歳以上となり、医療リソースの不足や医療費のさらなる増大などが懸念される問題だ。この問題の対抗策として地域における医療・介護の連携体制の整備や住民に健康増進などを促す予防医療の推進は欠かせない。各自治体は医療情報やデータを活用した独自の取り組みによる悪戦苦闘を続けている。

医療リソースの少なさをネットワークで補う

埼玉県利根保健医療圏(※1)内を中心に運営されている地域医療ネットワーク「とねっと」は、医療・行政関係者らによる視察が絶えない。住民の医療情報を地域の医療機関などが共有する医療情報連携ネットワーク(EHR)の先進事例として知られるからだ。EHRは、医療情報の交換による適切な医療・介護サービスを提供する仕組みとして全国で構築されたが、運用費の確保が難しいなどの理由で頓挫したケースが少なくない(※2)。その中で、埼玉県加須市など7市2町やその地域の医療機関、臨床検査施設が参加する「埼玉利根保健医療圏医療連携推進協議会」が運営する「とねっと」は9年目を迎えた。

18年にはシステムを刷新し、住民がスマートフォンで病院における検査結果を確認したり、毎日の血圧や歩数と言った健康情報を記録したりできるPHR(パーソナル・ヘルス・レコード)機能「とねっと健康記録(※3)」を強化した。高齢化社会が進展する中で予防医療を推進し、地域の医療費の適正化などにつなげていく。

「医療資源を最大限に生かせるネットワークを作ろう」―。加須市の大橋良一市長がそう発案したのは09年ころだ。埼玉県は人口10万人当たりの医師数が全国で最も少なく、利根保健医療圏はさらに埼玉県内で最少という慢性的な医師不足にあえいでいた。また、住民の多くは検査体制などが整った大病院を志向する中で、限りある資源で地域医療を支えるため、地域の中核病院と診療所のかかりつけ医などをITを活用したネットワークでつないで診療情報を共有させたいと考えた。

10年7月には大橋加須市長を会長に同協議会を立ち上げ、地元医師会や圏域の市町などと密な議論を積み重ねて12年7月の本格運用にこぎ着けた。同協議会では運営開始後も月平均3回の会議を重ねているが、これが「とねっと」の持続や発展の礎になった。同協議会の渡辺正男事務局長は「『とねっと』は行政が主体的に運営していますが、医師のご理解やご協力の下で顔が見える付き合いを重ねることで(地域の医療業界と)信頼関係を構築しました。それが(持続的な運営につながっている)要因だと思います」と振り返る。

「とねっと」に加入する住民は、参加する診療所や中核病院、調剤薬局などで検査結果や処方内容などが共有されるため、検査や投薬の重複が防げる。救急現場とも連携しており、万が一に自宅や外出先で倒れても「とねっとカード」を携帯していると、カード記載の番号などを基に救急隊員がタブレット端末を活用して事前に登録された患者の既往歴やアレルギー情報などを取得し、いち早い適切な処置や搬送が受けられる。

18年の刷新で機能強化した「とねっと健康記録」は、毎日の血糖値や血圧などを記録したり、病院で受けた検査結果や処方内容を閲覧したりして健康管理に役立てられる。こうしたメリットを訴求し、これまでに参加者を約3万4000人まで積み上げた。参加医療機関は154施設に上る。

埼玉利根保健医療圏医療連携推進協議会の渡辺正男事務局長

一方、圏内の住民の加入率はまだ5%程度に留まる。一定の参加負担金が必要になる中で、加入後に離脱した医療機関もある。その背景の一つには、医療圏という線引きによる限界がある。「利根保健医療圏内の診療所の中には同医療圏外の熊谷や大宮、浦和に所在する中核病院を連携先としているケースがあります。それでは『とねっと』に加入してもメリットは小さくなります」(渡辺事務局長)というわけだ。

そこで、協議会では圏域外の医療機関との連携も働きかけ始めており、埼玉県内全域での連携体制を目指す。もちろん、住民や医療機関に参加を促す地道な働きかけも欠かせない。高齢者に働く場を提供するシルバー人材センターなどでのPRや、中核病院に連携先の診療所などに参加を促すような要請を続ける。渡辺事務局長は「これからも一歩一歩進み、今まで以上に医師や住民に活用され、診療に役立つシステムへの改善を図ります。住民にメリットを還元できるシステム、住民が医療に対して安心感を持てるシステムを目指します」と力を込める。

産業振興と健康増進を両立する

「健康寿命延伸都市・松本」―。長野県松本市が08年から標榜するスローガンは、菅谷昭前市長の経歴と無縁ではない。信州大学の外科医だった菅谷前市長は、健康を基盤とした政策を進めてきた。その一つとして14年12月に創設した市民の健康増進と新たな健康ビジネスの実証を両立させる場「松本ヘルス・ラボ」の規模が拡大している。今年3月には16年ぶりに市長が交代し、デジタル化の加速を掲げる臥雲義尚新市長の下で次の段階に進もうとしている。

「産業創出と市民の健康増進を両立する他の地域にはない仕組みとして挑戦してきた中で、(規模の拡大により)1200人の会員を集めるなど一定の目標を達成してきた」。松本市健康産業推進課の高野敬吾課長は約6年の成果をそう振り返る。

松本ヘルス・ラボは企業が大学や医療機関と共同で健康に関わる新しい製品やサービスのモニター調査を実施できる。企業は同ラボと実施契約を結び、一定の費用を支払うと市民の参加による調査を通し、新製品の可能性などを検証できる。一方の市民は調査に参加することで、健康意識を醸成する機会が得られる。

例えば、19年度には食品関連企業が市内大学と共同で乳タンパク成分が糖代謝に与える影響を検証した。700人の市民から血液検査の確認などを行い、200人を抽出。その上で予備調査として空腹時の採血だけでは把握できない糖尿病リスクを確認できる糖負荷試験を実施し、最終的に100人のモニターを選んだ。モニターを対象に8ヶ月の調査を行った結果、完遂率は9割を超え、企業のエビデンス取得につながった。

高野課長は「企業には(完遂率9割超といった)精度の高いモニター調査の場を提供でき、市民には糖負荷試験といったなかなか受ける機会のない検査を通して気づきの機会を提供できました」と説明する。

一方、こうした調査は極めて健康意識の高い人を集客する仕組みにはなっているが、それは、健康意識の低い多くの人を呼び込めていない裏返しでもある。モニター調査の参加には有料の会員登録(※4)が必要だが、その会員の数は約24万人いる市民の中のわずか0.5%だ。

松本ヘルス・ラボでは企業が市民を対象にモニター調査を行える(写真は森永乳業などが2017年度に行った研究)

高野課長は「(3月に就任した)臥雲市長は(全市民に対する)会員数の少なさに課題を持っています。そのため、今後はデジタルを活用して幅広い市民を網羅できるように取り組みます。参加する市民が増えて(松本ヘルス・ラボの)規模がさらに拡大し、集まるデータが増えれば、企業にとってもより魅力的な場になります」と力を込める。健康意識が高くない一般市民を集客する施策としては、会員の健康行動などに応じて貯まるポイント制度の創設や会費の値下げなどを視野に検討を続けている。

幅広い市民参加と継続を促すスイッチはどこだ

医療や健康に関わる情報やデータを生かす施策を展開する自治体は、加須市や松本市だけではない。直近では東京都豊島区がKDDIと共同で11月にスマホアプリで住民の健康増進を進める実証実験を始める。PHRデータの収集や歩数に応じたインセンティブの提供、健康診断結果に基づく生活習慣病リスク予測の提示などができるアプリを通して区民に健康行動を促す。9月の会見で高野之夫豊島区長は「高齢社会対策として豊島区モデルを構築したい」と力を込めた。

神戸市も19年4月に市民を対象にしたPHRアプリの提供を始めており、約5500人の市民が利用する。市民は自分の健康情報を一括管理できるほか、ダイエットや認知症予防などの目的に応じた人工知能(AI)による健康アドバイスを受けられる。健康ポイントが貯まる機能もある。担当者は「(会員は)1万5000人の目標に対してまだまだ少ない。今後は高齢者を対象にした健康サービスなどを付加して利用者を増やしたい」と話す。

市民参加型の医療・健康施策について自治体が頭を悩ませる課題は、幅広く参加を促し、いかに継続してもらうかだ。健康な市民ほど自身の健康を意識しにくく、そうした施策に参加する動機が生まれにくい。各自治体は医療機関の情報共有による安心や健康ポイントなど、多様なインセンティブを模索しているが、市民の参加や継続を促す明確な“スイッチ”はまだ見えない。自治体の悪戦苦闘はなお続く。

※1:医療圏
 都道府県が制定する病床整備のための単位。人口の高齢化や疾病構造の変化など、地域の医療ニーズに応じた保険医療体制を整備するために設けられた。
※2:全国のEHRの現状
 EHRは運営費などの問題で頓挫したケースは多い。日本医師会総合政策研究機構の担当者は「(EHRは行政の)補助金を背景に2011年から(システム構築が)劇的に進んだが、運用費がまかなえないといった理由で(2012年度から継続調査している154カ所のうち)4割以上の地域で継続されていない」と指摘する。
※3:とねっと健康記録

「とねっと健康記録」の基盤は、キーウェアソリューションズが提供するPHRサービス「健康からだコンパスLifeRoute(ライフルート)」が担う。ライフルートは毎日の歩数や体重、血圧、食事内容などを記録できるほか、とねっとでは病院で血液検査を受けたり、薬局で調剤を受け取ったりすると、その内容が記録される。テルモやA&D、アコーズなど多数のメーカーの歩数計や血圧計、血糖計といった健康機器と連携できる。iPhoneを健康機器にかざすとNFCを通して直接データを読み込む機能もある。

12年7月にサービスを開始し、当時は個人向けに展開していたが、利用者が伸びずに法人・団体向けに提案先を切り替え、実績を作ってきた。その中で、とねっとにおける採用が決まった。同社の畠山和哉システム開発事業 部長は「(医療・行政関係者らの注目されている)とねっとに採用されたことで(ライフルートへの)関心は高まり、EHRと連携する事例を作ることもできました。地域医療連携においてPHR活用への期待が高まっており、複数の地域から問い合わせを受けています」と説明する。

※4:松本ヘルス・ラボの会員制度
 年会費は3000円。会員は企業によるモニター調査に参加できるほか、年2回の体力テストと血液検査などが受けられる。

【連載・医療データは誰のモノ】
 #01 コロナ時代の武器に。健康医療データ持ち歩く「PHR」のすべて(10月6日公開)
 #02 【日本医師会の主張】PHRの価値と懸念(10月7日公開)
 #03 三井住友FGが認めた医療アプリの正体(10月8日公開)
 #04 医療問題噴出の「2025年」迫る。地方行政たちの悪戦苦闘(10月15日公開)
 #05 糖尿病やアトピー、患者同士の交流アプリが医療を変える(11月5日公開)
 #06 医療相談アプリに信念。元心臓外科医が考える遠隔診療の構造的問題(11月11日公開)

ニュースイッチオリジナル
葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
PHRの利活用促進は生活者の健康意識の低さが壁になります。自治体としては健康な時からこそ使ってほしいと考えますが、利用を強く促せる明確な術が見えていないのが現状です。その中で、ある大学病院の関係者は「PHRは主に高齢者層が使うため、継続率を高める上でアプリのわかりやすさや使いやすさは重要」と話していました。利用者の拡大に向けてわかりやすいインセンティブ設計はもちろんですが、UIUXの改善という地道な取り組みも重要といえそうです。

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生活者がスマートフォンなどを通して病院の診療情報や毎日の健康データを閲覧したり、活用したりする「PHR」がじわり注目を集めています。他の病院や薬局に開示してより適切な診療や指導をうけるほか、PHRに蓄積された医療・健康データに基づき、最適な生活サービスを提供しようという動きも出始めています。PHRをめぐる動向を追いました。

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