日産、17年目のゴーン離れ
社長・CEO退任。ゴーン氏は何を残しこれから何をするのか
日産自動車は23日、4月1日付でカルロス・ゴーン社長兼CEO(最高経営責任者、62)が社長を退き、後任に共同最高経営責任者(CEO)の西川広人氏(63)が就任する人事を発表した。ゴーン氏は代表権のある会長に専念する。ゴーン氏は2000年6月から社長を務めており、約17年ぶりのトップ交代。
今から11年前の2006年。日刊工業新聞では「塙義一 決断・そのときわたしは」、「日産とNISSAN~ゴーン流8年の理想と現実」と題した2つの連載を掲載。仏ルノーの傘下に入った経緯と、その後に露呈した“いびつな企業統治”についてリポートしている。そして昨年、三菱自動車を傘下に治め、ゴーン流のガバナンスは新しい段階へ突入した。
今回のトップ交代でゴーン支配は変わるのか。連載を再掲し17年目の現実を考えてみたい。
元日産自動車会長・社長の塙義一氏が亡くなったのは2015年。ルノーとの提携にはどんな苦悩や決断があったのかをを冷静に振り返っている。
日産自動車と仏ルノーが99年3月に発表した提携は、当時「負け組連合」と揶揄(やゆ)された。日産は本命のダイムラー・クライスラーに見捨てられた―。人々はそう思っていた。しかし、その交渉の先頭に立っていた塙氏(当時社長)は、早い段階でルノーを本命に据えていたという。いま我々は、その判断が正しかったことを知っている。両社の提携成功の要因はカルロス・ゴーン氏の活躍だけではない。日産とルノーの相性の良さの背景には、提携交渉の過程ではぐくまれた信頼関係がある。
私が社長に就任したのは96年6月です。前任の辻義文社長はバブル経済がはじけた後の大変な時期に、地道な改善で4期ぶりの営業黒字(96年3月期)までやっと持ってきた。それでもまだ安堵(あんど)できる状況ではありませんでしたが、日産の社員には危機感がなかった。これだけ大きい会社が急になくなることはないだろう、という期待がどこかにあって改革の妨げになっていました。
本当に会社がなくなる可能性もあるけれど、それを強調しすぎて社員が落ち込んでしまうのはまずい。社員には「やるぞ」という意気込みを持ってもらいたい。そこで98年春から3年間の中期経営計画では、ターゲットとして「シェア25%」という数字を掲げました。工場閉鎖と人員削減では縮小再生産になるだけです。私の課題は、開発から始まる会社のマネジメント全体をいかに変えていくかでした。
まず改革が必要だったのは関連会社とのもたれ合いです。5というプライスの部品を3で調達したいのだけれど、情にひきずられて3・5とか4になってしまう。コストだけでなく、品質面でももう一歩突っ込んだ努力が行われていませんでした。系列取引の見直しだけでなく、年功序列とか終身雇用とか、日本の高度経済成長を支えてきた仕組みを見直す作業だったとも言えるでしょう。
ところが、シェア25%だと言うと社内に「数字を出せばいいんだろう」という傾向が出てきてしまった。足元の改革を怠って、安易な策で数字を上げようとする。後に大きな問題となる米国でのリース販売拡大もその一例です。そこで改革を実行する具体的な「手だて」として「グローバル事業革新策」を98年5月20日に発表しました。
この時の施策は車種の削減、プラットフォームの集約、販売店の2チャンネル化、資産売却による有利子負債圧縮、総コストの4000億円削減―など、項目は後の日産リバイバルプランとよく似ています。
ゴーンが立派なのは、それを実行したことなのです。
<次ぎのページ、ゴーンさんとのエピソード>
今から11年前の2006年。日刊工業新聞では「塙義一 決断・そのときわたしは」、「日産とNISSAN~ゴーン流8年の理想と現実」と題した2つの連載を掲載。仏ルノーの傘下に入った経緯と、その後に露呈した“いびつな企業統治”についてリポートしている。そして昨年、三菱自動車を傘下に治め、ゴーン流のガバナンスは新しい段階へ突入した。
今回のトップ交代でゴーン支配は変わるのか。連載を再掲し17年目の現実を考えてみたい。
ゴーンを日本に連れてきた男
元日産自動車会長・社長の塙義一氏が亡くなったのは2015年。ルノーとの提携にはどんな苦悩や決断があったのかをを冷静に振り返っている。
日産自動車と仏ルノーが99年3月に発表した提携は、当時「負け組連合」と揶揄(やゆ)された。日産は本命のダイムラー・クライスラーに見捨てられた―。人々はそう思っていた。しかし、その交渉の先頭に立っていた塙氏(当時社長)は、早い段階でルノーを本命に据えていたという。いま我々は、その判断が正しかったことを知っている。両社の提携成功の要因はカルロス・ゴーン氏の活躍だけではない。日産とルノーの相性の良さの背景には、提携交渉の過程ではぐくまれた信頼関係がある。
「合併」ではなく「対等な提携関係」を
私が社長に就任したのは96年6月です。前任の辻義文社長はバブル経済がはじけた後の大変な時期に、地道な改善で4期ぶりの営業黒字(96年3月期)までやっと持ってきた。それでもまだ安堵(あんど)できる状況ではありませんでしたが、日産の社員には危機感がなかった。これだけ大きい会社が急になくなることはないだろう、という期待がどこかにあって改革の妨げになっていました。
本当に会社がなくなる可能性もあるけれど、それを強調しすぎて社員が落ち込んでしまうのはまずい。社員には「やるぞ」という意気込みを持ってもらいたい。そこで98年春から3年間の中期経営計画では、ターゲットとして「シェア25%」という数字を掲げました。工場閉鎖と人員削減では縮小再生産になるだけです。私の課題は、開発から始まる会社のマネジメント全体をいかに変えていくかでした。
まず改革が必要だったのは関連会社とのもたれ合いです。5というプライスの部品を3で調達したいのだけれど、情にひきずられて3・5とか4になってしまう。コストだけでなく、品質面でももう一歩突っ込んだ努力が行われていませんでした。系列取引の見直しだけでなく、年功序列とか終身雇用とか、日本の高度経済成長を支えてきた仕組みを見直す作業だったとも言えるでしょう。
ところが、シェア25%だと言うと社内に「数字を出せばいいんだろう」という傾向が出てきてしまった。足元の改革を怠って、安易な策で数字を上げようとする。後に大きな問題となる米国でのリース販売拡大もその一例です。そこで改革を実行する具体的な「手だて」として「グローバル事業革新策」を98年5月20日に発表しました。
この時の施策は車種の削減、プラットフォームの集約、販売店の2チャンネル化、資産売却による有利子負債圧縮、総コストの4000億円削減―など、項目は後の日産リバイバルプランとよく似ています。
ゴーンが立派なのは、それを実行したことなのです。
<次ぎのページ、ゴーンさんとのエピソード>