ニュースイッチ

三菱自動車が10年前に誓った再生への決意はどこに

「数字を達成しても企業文化が変わらないと意味がない」(益子修)
三菱自動車が10年前に誓った再生への決意はどこに

05年1月28日に経営計画を発表する益子社長(中央)と西岡会長(右)


再生の糸口「クルマづくりの原点へ。」


 「クルマづくりの原点へ。」―。三菱自動車が新たに策定したキャッチフレーズがこの言葉だ。自動車メーカーとして販売を下支えするのはやはり高い技術や開発力。モノづくりを改めて問い直すという”原点回帰“で、再生への糸口を見いだそうとしている。

 「どうしてあれだけのリコールを出したのだろうか」。三菱重工業から派遣された副社長の春日井霹は、初めて岡崎工場を視察した際、こんな疑問を抱いた。

 春日井の驚きはエンジニアの技術力の高さ。相次ぐリコールを発表する三菱自を、三菱重工という外部から見ていた春日井は「どうしようもない会社。きっといいかげんな商品を作っているのでは」とのレッテルを張っていたという。しかし実際は、「技術陣1人1人のレベルは高く、品質も優れている」(春日井)。

 事業再生担当として生産部門を一から見直さねばと覚悟を決めていた春日井だが、読みは見事に外れる。基本はできている。あとは応用だ。

残る“タコつぼ文化”


 三菱自だけでなく、親会社となった三菱重工も長年、「個の文化」が指摘されてきた。工場ごと、事業部ごとでそれぞれ独自の文化を築いてしまうという意味で、悪く言えば“タコつぼ文化”。三菱自の生産部門にもその文化が残っている。

 「技術者の思想はかたくな。各自の個性で作り込みをしてしまう傾向があり、共通化しにくい体質。個人の志向を出すエンジニア集団」(同)。“個”が勝手気ままに動いては企業という“全体”は機能しない。そこをまとめ上げるのがマネジメントだが、春日井は「共通化の余地は十分ある。これからの楽しみだ」と、個と個を組み合わせ全体昇華に結びつけるベクトルづくりに着手する。

 三菱自の成長を楽しみにしているのは春日井だけでない。筆頭株主の三菱重工も事業面での連携に期待を抱いている。05年4月に三菱重工内に設置された「自動車関連事業室」では、半年間をかけてある作業が地道に進められてきた。1000を超えるともいわれる重工の技術の洗い出しだ。

 自動車メーカーは自動車という単一商品の生産に限られるが、重工は原発や航空、工作機械といったあらゆる事業を抱える“技術のデパート”。「重工の持つ技術を整理し、三菱自の欲しがる技術を組み合わせていく」(室長の中山明彦)。

 両社は連絡会を発足させ、技術のすり合わせを進めているが、司令塔役である中山は、「もともとは一緒の企業。36年という年月を経て、お互いの技術は必ず進歩しているはずだ」と、株主という立場だけでなく、有力サプライヤーとしても、「モノづくり企業」の復活に期待をかけている。

トヨタ流を注入


 三菱重工は昨年、トヨタ自動車の技術部門の総帥でアイシン精機の元会長、和田明広を三顧の礼で社外取締役に招いた。和田招へいは、三菱自に“トヨタ流”を注入したいという意欲の表れで、和田自身も精力的に岡崎工場に足を運んでいるといわれている。

 クルマづくりの原点へ―。三菱自の原点回帰に向けた布石は着々と打たれつつある。

「定量」と「定性」-。再生の意味とは?


 三菱自動車にとっての“再生"とは何を意味するのだろうか。定量的には収益の回復であり、「07年度の当期利益410億円」が当面の目標となるが、数値的な目標だけで再生完了とはいえない。将来のあるべき企業像を描き出す定性的な作業こそが三菱自に求められている。”その先の三菱自“―。未来創生というもっとも重要な任務が待ち受けている。

 「緊急手術としての再生計画は07年度で終了する。しかし会社はその先も存続する。数字だけでなく、三菱自の体質や文化、風土といったものをしっかりと方向づけていく」。社長の益子修は次なる展開を頭に描いている。

 「『数字はクリアした。でも企業風土は変わっていない』では意味がない。いずれまた危機が来る」(益子)。定量、定性の“両輪"がそろって回転し始めた時、再生へのエンジンが加速してくる。

日産が教科書ではない


 三菱自が長いトンネルの先に明るさを見いだし始めた昨年9月、日産自動車社長のカルロス・ゴーンは、「日産・完全復活」を高らかに宣言した。いつもの身ぶり手ぶりを交えて、自らの成果を得意満面に語り続けるゴーンの姿を複雑な思いで見つめていた三菱自関係者は多い。リコール問題で04年に経営危機に陥った三菱自は、日産を“教科書"として再生に乗り出していたからだ。

 大量の人員削減、固定資産の売却、巨額の金融支援―。再建手法は同じだ。しかし日産と三菱自は非なる道をたどる。この違いはなにか。ある日産関係者は”危機感“という言葉を用いて説明する。

 「当時の日産社内は『これでは本当に会社がなくなる』との危機感が広がった。危機感が強かったからこそ中堅社員を中心に再建策が練られ、ゴーンはそれを受け入れ実行に移した」。一方の三菱自社内には「最後は三菱グループが救ってくれる」との声が前回、そして今回の経営危機に際してもあったと聞く。”甘えの構図“を断ち切らねば真の再生はありえない。

 日本の自動車メーカーは経営のかじ取りさえ誤らなければ、生き残りは決して難しくない。国内に限っても自動車は40兆円産業である半面、プレーヤーの数は限られている。しかも開発や生産にどれだけ投資できるかという資本産業であるため、新規参入は極めて難しい業界。

10年間の不振を取り戻すにはそれなりの時間


 三菱自も定量的な再生は十分可能である。しかし、益子も指摘するように、三菱自がどのような企業に生まれ変わるのかが焦点。その姿を明確に打ち出すことがユーザーや株主をはじめとするステークホルダーへの責務となる。

 「(三菱自が)今後も生きていけると確認できたのがこの1年」と会長の西岡喬は再生初年を振り返る。「まだまだ復活を口にできる段階ではない。10年間の不振を取り戻すにはそれなりの時間がかかる。1年、1年の計画を確実にパスしていく」。

 三菱自は現在、新たな企業像を含めた「将来ビジョン」の策定を急いでいる。再生計画終了以降の三菱自のあり方を提示するものだ。助走から本格走行へのシフトアップ。その先の三菱自がいよいよ見えてくる。

明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役ブランドコミュニケーション担当
益子社長のインタビューの最後の部分。「単なる数値だけでなく、会社の体質や体力、文化、風土まで踏み込んで方向性を打ち出したい。数字は達成したが企業文化は変わっていないでは意味はない」。 今も会長兼CEOとして経営トップの座にある益子氏。自動車担当の記者時代に何度も取材し会った。今回の問題発覚後、公の場に出てきていなが、改めて聞きたい。どこでボタンを掛け違えたのか。個人的には、やはり最初の三菱グループの支援体制からそもそもボタンを掛け違えていたと考える。すべてグループ3社のそれぞれの思惑の中で事が動き、経営のスピード感も自立心も失っていった。

編集部のおすすめ