三菱自動車が10年前に誓った再生への決意はどこに
「数字を達成しても企業文化が変わらないと意味がない」(益子修)
三菱自動車は立ち直れるのか。燃費試験データに関する不正問題は、経営の根幹を揺るがし、このままでは会社の存続すら危ぶまれる。2002年以降大型車のリコール隠しが発覚。不正の影響から04年にドイツ・ダイムラークライスラーと提携関係を打ち切った。三菱商事、三菱重工業、三菱東京UFJ銀行の三菱グループ御三家が支援に乗り出し、05年1月に三菱重工の西岡喬会長(当時)が三菱自の会長を兼任、三菱商事出身の益子修氏が社長(現会長兼CEO)に就任し再生が動き出した。日刊工業新聞ではその1年後の06年1月に長期連載で三菱自動車の新たな挑戦を追っている。この10年間の企業再生への取り組みは何だったのか。当時の記事を振り返りながら検証する。
三菱自動車のエンジンが再始動している。リコール隠しによるブランド失墜、販売不振、親会社・ダイムラークライスラー(DC)の支援拒否―。一時は自律調整機能が麻痺(まひ)した三菱自だが、三菱グループに”けん引“される形で再生への道筋をたどり出した。紆余(うよ)曲折を経た再生計画から丸1年、社内には変化への兆しが見て取れる。三菱自は今、”復活への胎動“の時を迎えている。
05年12月初旬。社長の益子修は日本からおよそ1万キロメートル離れた中東の地に降り立った。サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦(UAE)の3カ国の販売会社と意見交換するのが目的だ。
「本社(三菱自)の社長が来てくれたのは初めて」という皮肉混じりに歓迎の意を表す販社首脳は、あいさつもそこそこに矢継ぎ早に注文を繰り出す。「新商品が回ってこない。顧客はインターネットで新車情報をつかんでいる。早い時期に新車を投入できる体制を構築してほしい」。中東は三菱自にとって極めて有望エリア。販売も好調だ。しかし顧客やディーラーへの配慮不足を目の当たりにした益子は帰国後、中東戦略の練り直しを指示した。
歴代社長が決して訪れることがなかった中東に、わざわざ足を運んだのはなぜか。ここに益子の三菱自再生への手法やこだわりを探るヒントが隠されている。
益子の再建手法は極めてシンプルだ。「守り」より「攻め」を重視する。本来ならば経営不振の元凶の一つ、米国市場のてこ入れこそが再建に向けた最優先課題になるが、「海外では米国や欧州向けを中心に車種開発しているが、実際に利益を上げているのはアジアや中東、中南米。伸びる地域をさらに伸ばす」(益子)。経営難にあえいだ日産自動車を復活させたカルロス・ゴーンのようなカリスマ性はないが、益子の描く再生シナリオには確固とした芯(しん)が見えてくる。
この数年、三菱自は”トップマネジメントなき歴史“をたどってきた。DC時代は、DCにとって最適な世界戦略の枠組みに組み込まれ、独自のマネジメントを発揮できる場面は少なかった。04年度には三菱重工業から岡嵜洋一郎を最高経営責任者(CEO)として迎えたが、リコール隠しという”負の遺産“の処理に追い立てられ、意図的な仕掛けは皆無。トップマネジメントの欠如は、再建計画が二転三転するという非常事態を招いている。
経営不振の時ほど求められるのが強力なマネジメントだ。死の伊藤忠商事を立て直した丹羽宇一郎など、企業再生には社内外に”メッセージ“を発することができる経営者が不可欠。益子流経営手法の具体的評価はこれからだが、トップマネジメントがようやく機能し始めたことは間違いない。
三菱自動車が再生を進めるうえで乗り越えなければならないものがある。スリーダイヤの呪縛―。財務面では三菱グループの支援を受けざるを得ない一方で、本業ではグループ意識からの脱却が求められる相反する構図。グループを覆う「供給側の論理」から、顧客に軸足を移す「需要側の論理」に転換できるか。三菱自は“踏み絵”を迫られている。
「三菱グループは国や企業向けのビジネスが中心。コンシューマー(個人)向けビジネスのDNAがない」とある自動車メーカー首脳は指摘する。
三菱グループは名実ともに日本を代表する企業集団。三菱重工業、三菱商事、三菱東京UFJ銀行を御三家に三菱化学、日本郵船など名門企業がずらりと名を連ねる。「最強の布陣」(財界関係者)ともいわれる三菱グループながらアキレス腱もある。一般消費者向けのビジネス。グループの主軸はあくまでもモノづくりで、“川上”という供給サイドの発想に立脚したDNAが連綿と培われている。
国や大企業が主要な取引先である三菱グループ各社にあって、個人を対象とする三菱自は、キリンビールや新日本石油と並ぶ重要な企業に位置づけられている。
しかし、これまでの三菱自を見る限り、供給サイドの発想から抜け切れていないのが実情だ。三菱グループのDNAが悪い方向に一人歩きしてしまう。
三菱自はその高い技術力から名車を世に送り出している。「ランサー」「ギャラン」といった大衆車に加え、90年代にはスポーツ多目的車(SUV)ブームの火付け役となる「パジェロ」を開発、ヒットを記録している。しかし、三菱自が優位性を発揮できたのは、モノを供給すれば売れるという供給側優位の時代。需要側優位の現在では、そんなビジネスモデルは通用しない。
「『走りのDNA』といった供給側の発想からの開発が進み、消費者とのギャップが知らず知らずのうちに大きくなった」(三菱自関係者)。リコール問題だけでなく、過去の成功体験に引きずられるあまりに変化対応を怠ったことも、ここ数年の販売不振の大きな要因だ。
三菱自は三菱重工の連結対象会社として再出発している。もともとは重工の自動車部門だった三菱自だけに、「元の鞘(さや)に収まった」(社長の益子修)ことになる。
「本来はグループに依存せず生きていくのが筋」(会長の西岡喬)ながら、財務上の理由から“先祖返り”を余儀なくされた三菱自にとって不可欠なのが、販売や技術開発という面ではグループの資源を最大限利用しながらも、意識は“脱三菱”を加速するしたたかさを持つことだ。「現在の社員は、かつての重工の体質を引きずっている世代ではない」(益子)。変化への素地は整いつつある。
「供給側の論理」という三菱グループのDNAを自ら否定できた時、三菱自の再生が見えてくる。スリーダイヤの呪縛を解きほぐすのはこれからだ。
※内容、肩書きは当時のもの
“復活への胎動"の時を迎えている・・
三菱自動車のエンジンが再始動している。リコール隠しによるブランド失墜、販売不振、親会社・ダイムラークライスラー(DC)の支援拒否―。一時は自律調整機能が麻痺(まひ)した三菱自だが、三菱グループに”けん引“される形で再生への道筋をたどり出した。紆余(うよ)曲折を経た再生計画から丸1年、社内には変化への兆しが見て取れる。三菱自は今、”復活への胎動“の時を迎えている。
05年12月初旬。社長の益子修は日本からおよそ1万キロメートル離れた中東の地に降り立った。サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦(UAE)の3カ国の販売会社と意見交換するのが目的だ。
「本社(三菱自)の社長が来てくれたのは初めて」という皮肉混じりに歓迎の意を表す販社首脳は、あいさつもそこそこに矢継ぎ早に注文を繰り出す。「新商品が回ってこない。顧客はインターネットで新車情報をつかんでいる。早い時期に新車を投入できる体制を構築してほしい」。中東は三菱自にとって極めて有望エリア。販売も好調だ。しかし顧客やディーラーへの配慮不足を目の当たりにした益子は帰国後、中東戦略の練り直しを指示した。
歴代社長が決して訪れることがなかった中東に、わざわざ足を運んだのはなぜか。ここに益子の三菱自再生への手法やこだわりを探るヒントが隠されている。
益子の再建手法は極めてシンプルだ。「守り」より「攻め」を重視する。本来ならば経営不振の元凶の一つ、米国市場のてこ入れこそが再建に向けた最優先課題になるが、「海外では米国や欧州向けを中心に車種開発しているが、実際に利益を上げているのはアジアや中東、中南米。伸びる地域をさらに伸ばす」(益子)。経営難にあえいだ日産自動車を復活させたカルロス・ゴーンのようなカリスマ性はないが、益子の描く再生シナリオには確固とした芯(しん)が見えてくる。
トップマネジメントなき歴史
この数年、三菱自は”トップマネジメントなき歴史“をたどってきた。DC時代は、DCにとって最適な世界戦略の枠組みに組み込まれ、独自のマネジメントを発揮できる場面は少なかった。04年度には三菱重工業から岡嵜洋一郎を最高経営責任者(CEO)として迎えたが、リコール隠しという”負の遺産“の処理に追い立てられ、意図的な仕掛けは皆無。トップマネジメントの欠如は、再建計画が二転三転するという非常事態を招いている。
経営不振の時ほど求められるのが強力なマネジメントだ。死の伊藤忠商事を立て直した丹羽宇一郎など、企業再生には社内外に”メッセージ“を発することができる経営者が不可欠。益子流経営手法の具体的評価はこれからだが、トップマネジメントがようやく機能し始めたことは間違いない。
供給側の論理とスリーダイヤの呪縛
三菱自動車が再生を進めるうえで乗り越えなければならないものがある。スリーダイヤの呪縛―。財務面では三菱グループの支援を受けざるを得ない一方で、本業ではグループ意識からの脱却が求められる相反する構図。グループを覆う「供給側の論理」から、顧客に軸足を移す「需要側の論理」に転換できるか。三菱自は“踏み絵”を迫られている。
「三菱グループは国や企業向けのビジネスが中心。コンシューマー(個人)向けビジネスのDNAがない」とある自動車メーカー首脳は指摘する。
三菱グループは名実ともに日本を代表する企業集団。三菱重工業、三菱商事、三菱東京UFJ銀行を御三家に三菱化学、日本郵船など名門企業がずらりと名を連ねる。「最強の布陣」(財界関係者)ともいわれる三菱グループながらアキレス腱もある。一般消費者向けのビジネス。グループの主軸はあくまでもモノづくりで、“川上”という供給サイドの発想に立脚したDNAが連綿と培われている。
国や大企業が主要な取引先である三菱グループ各社にあって、個人を対象とする三菱自は、キリンビールや新日本石油と並ぶ重要な企業に位置づけられている。
しかし、これまでの三菱自を見る限り、供給サイドの発想から抜け切れていないのが実情だ。三菱グループのDNAが悪い方向に一人歩きしてしまう。
『走りのDNA』が消費者とのギャップに
三菱自はその高い技術力から名車を世に送り出している。「ランサー」「ギャラン」といった大衆車に加え、90年代にはスポーツ多目的車(SUV)ブームの火付け役となる「パジェロ」を開発、ヒットを記録している。しかし、三菱自が優位性を発揮できたのは、モノを供給すれば売れるという供給側優位の時代。需要側優位の現在では、そんなビジネスモデルは通用しない。
「『走りのDNA』といった供給側の発想からの開発が進み、消費者とのギャップが知らず知らずのうちに大きくなった」(三菱自関係者)。リコール問題だけでなく、過去の成功体験に引きずられるあまりに変化対応を怠ったことも、ここ数年の販売不振の大きな要因だ。
三菱自は三菱重工の連結対象会社として再出発している。もともとは重工の自動車部門だった三菱自だけに、「元の鞘(さや)に収まった」(社長の益子修)ことになる。
「本来はグループに依存せず生きていくのが筋」(会長の西岡喬)ながら、財務上の理由から“先祖返り”を余儀なくされた三菱自にとって不可欠なのが、販売や技術開発という面ではグループの資源を最大限利用しながらも、意識は“脱三菱”を加速するしたたかさを持つことだ。「現在の社員は、かつての重工の体質を引きずっている世代ではない」(益子)。変化への素地は整いつつある。
「供給側の論理」という三菱グループのDNAを自ら否定できた時、三菱自の再生が見えてくる。スリーダイヤの呪縛を解きほぐすのはこれからだ。
※内容、肩書きは当時のもの