「トヨタだからできた」。生活支援ロボットで生まれた学術界×産業界の理想型

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9月のワールド・ロボット・サミットでプログラム実装中のHSR。AI研究で有名な東大松尾研チーム。右から2人目はクシナダ機巧の矢口裕明社長、社長本人もHSRで研究してきた一人

日本のロボット研究を支えてきたトヨタ自動車の生活支援ロボット「HSR」が一つの節目を迎える。日本ロボット学会とロボカップ日本委員会、トヨタの三者でオープンな研究コミュニティーを作る。トヨタはロボカップ日本委員会にHSRを無償で一括貸与し、知的財産や契約手続きなどを簡略化、研究者がHSRを活用しやすくする。これは大企業が研究や学術界を支える理想型の一つだ。学術界と産業界が連携し、研究の連続性を担保する試金石となりそうだ。(小寺貴之)

大きな意味 「研究者の自由度広がる」

「HSRの2や3(後継機)はあるのか。アカデミアはどんなエビデンス(根拠)を示せば、この(産学連携による)活動が持続可能になるのか」―。日本ロボット学会前会長の浅田稔大阪大学特任教授は、トヨタの開発担当者に問いかけた。ロボット学会での一場面だ。

これまでトヨタは研究者と一対一で共同研究の契約を結び、HSRを提供してきた。これを2022年4月からは、ロボカップ日本委員会を通して各研究者にHSRを貸し出す運営方式に移行する計画だ。同委員会会長の岡田浩之玉川大学教授は「ロボット研究者の自由度は広がる」と期待する。日本に割り当てられるHSRが増え、研究コミュニティーは大きくなる。トヨタは一歩引くことで、コミュニティーの一構成員としてフラットに関われるようになる。

「トヨタだからできた」

トヨタがサポートする形でHSRが提供されてきたことは、学術界にとって大きな意味があった。第一の利点はロボットの安定稼働だ。これにより人工知能(AI)技術や情報系の研究者など、ハードウエアに明るくない研究室でもHSRを運用できロボットとAIの統合研究が進んだ。海外では米マサチューセッツ工科大学(MIT)など、日本では東京大学の松尾研究室やプリファード・ネットワークス(PFN、東京都千代田区)など、世界14カ国・46拠点でHSRを研究に活用している。

第二にロボ競技会の運営コストが圧縮され、複数のラボで開発する相乗効果が得られた。ロボカップではHSRを用いた家庭用ロボの競技が立ち上がり、開発したソフトウエアがオープンソースとして共有されている。

第三に入学したての大学生など、ロボットを本格的に学び始める若い世代への教育プログラムに最適だった。同じ機体で入門講座から本格研究までシームレスに使えるポテンシャルがある。

学→統合研究/産→技術継承

こうした貢献について日本ロボット学会の村上弘記会長(IHI技術理事)は「(豊富なリソースを持つ)トヨタだからできた面がある」と指摘する。世界を見れば、米グーグルが提供するAI研究のための計算インフラや米Xプライズ財団が主催する高額賞金の技術開発競技会など、研究のプロセスやトレンドを変える例もある。このように、1国の科学技術政策よりもインパクトの大きい事業が存在する。

そして米国ではテクノロジーが株価に跳ね返る。例えば空飛ぶクルマや量子コンピューター、AIなど、株価対策に喧伝されてきたテクノロジーは少なくない。喧伝することで優秀な人材が世界から集まるという側面もある。

日本では米国ほどの効果はなく、企業にとって事業につながる技術開発以外は学術界と連携するうまみは少ないのが現実だ。すぐに売り上げが立たないロボット開発は、そこから得られた技術や知見を社内の生産性向上につなげて投資効果を示していく必要がある。トヨタの場合は社内で使う無人搬送車(AGV)の高度化や生産工程の自動化など技術の応用先があり、開発を継続できた。

有機的な連携 “最先端”統合に必須

14年のHSRが扉を開ける研究。一度登録すると扉の場所や開け方を覚えてくれる。当時は腕が7軸だった。この論文を書いた東大の矢口裕明特任講師(当時)はクシナダ機巧を起業してロボット開発支援を事業化(東大提供)

HSRが現在の形になるまでには紆余(うよ)曲折があった。04年に開発を始め、当初から屋内での要介護者などの生活支援を目的としていた。06年に単腕のプロトタイプが作られ、12年に現在の形に近いモデルが登場した。これが東大などのロボット研究室で検証され、15年に研究用プラットフォーム(基盤)としての提供が始まった。この過程で7軸だった腕が4軸に削減され、製造コストや保守の負荷を低減した。最終的に移動と背伸びを含めて8自由度を持つ仕様となった。

研究用プラットフォームとして定着するまでも試行錯誤の繰り返しだった。まず15年にハッカソン(技術開発コンテスト)を開き、8チームがHSRを使った家庭内でのロボットプログラムを開発した。九州工業大学の大橋健教授はサンリツオートメイション(東京都町田市)との合同チームで参加し、家主の留守中にペットを見守るロボプログラムを作製した。

15年に東京台場のメガウェブで開催したHSRハッカソン。8チーム38人が参加

大橋教授は「あれから6年間、はたきを振ったHSRはうちだけ」と胸を張る。はたきの柄が細く、正しくつかんだと判定するのが難しいためだ。HSRのハンドカメラの色判定で把持したことを確認し、犬と遊ぶデモができた。こうした開発をたった3日で実現できたため、トヨタは研究用プラットフォームとして提供する価値があると判断。HSRを学術界に広く提供することを決めた。

それから6年。ロボカップやワールド・ロボット・サミット(WRS)などのロボット競技会の標準機として採用され、コミュニティーはさらに拡大した。HSRで論文を書いてきた研究者が起業しHSRの開発支援を始めるなど、産業的なインフラも整ってきた。トヨタが機体や技術サポートなど、すべてを提供しなくてもコミュニティーが自立するようになってきている。新しい運営方式で研究の柔軟性を高め、より自由闊達な研究を促していく。

産業界に利点提示を

15年のHSRハッカソンで犬をあやすHSR

こうした取り組みはロボットのようなすり合わせ要素の多い研究開発に連続性を与える意味がある。民間では経営合理性にかなわなければ、開発プロジェクトは打ち切られてしまう。学術界でも予算が切れれば研究は終わりだ。そして、大学発のプラットフォーム機がインパクトのある規模で長期間提供された例はほぼない。大学ではデバッグ(プログラムミスの修正)を重ね、技術を成熟させて供給し続けることが難しいためだ。だが民間が標準機を提供すれば量産を視野に入れた設計ができ、大学が使うことで技術は継承されていく。

ロボットは最先端技術を統合してやっと稼働する。この極めて複雑なシステムを開発するには、産学がシステマチックに連携しないと統合は起こりえない。家庭内で家事を手伝う移動型作業ロボットが必要とされる時代は必ず来る。学術界はロボット開発のメリットを産業界にいかに訴求できるか。サービスロボットの隆盛は産学の有機的な連携がカギとなりそうだ。

記者の追記

「家庭用ロボットですよね?技術者にデザインさせちゃダメですよ。見た目って大事なんですよ。商品なんですから」と、初めてHSRを見たときに意見したことを覚えています。ただ7年間も見てると、HSRがぶさかわいく見えてきて、研究室で動いて、たくさんの学生さんが使っているのを見てると、いつの間にか愛おしく見えてしまう。自分も病気にかかったんだな、犬型ロボットや、かわいく振る舞うだけのロボを愛す人たちを白い目で見ちゃいけないなと思う次第です。このぶさかわいいロボはロボットの研究自体を支えてきました。東大のJSKなど名門研究室への提供が始まってから約10年。広くアカデミアに提供されて6年ほど経ちました。HSRで博士論文を書いた学生が、助教になり、講師になり、まだ准教授はいなかったかなと思います。トヨタに聞いたら海外にいると答えてくれるかもしれません。

ロボット研究で標準機やプラットフォームが提供されることには大きな意味があります。特にソフトウエアやAI周りで活躍する知能化の先生たちが恩恵を受けました。研究室で開発した画像認識や動作生成などを標準機に実装して効果を確かめられます。データをAIに食わせて認識精度などの数字を競うことも大切ですが、実際に動くシステムに導入すると計算負荷や速度、要求精度など、実用上の観点を検証することができます。機械学習という不完全だけどポテンシャルはある技術をどうやってシステムに実装していくか、機械学習の不完全な部分をどう補償して使える技術に仕上げるか。実用技術や人材を輩出したい研究室にとっては重要な研究インフラになりました。一方、自分たちで機体を作りたいロボット研究者には、腕が足りない、軸が足りない、センサーが足りない、もっと不整地を走りたい、などといろいろ言われてます。ただ家庭に入れるロボットとして設計したらHSRに毛が生えたロボットに落ち着くように思います。

約10年続けてきたHSRの提供が2022年で節目を迎えます。日本の学術界にはよりオープンな研究環境が提供されます。ただ、現行機の生産は終了とも聞こえてきます。後継機については公開可能な情報はないそうです。でも、一世代20年は続けたいです。いまのHSRでなくても、標準機が提供されて、これを使った研究が世界から集まる構造を作りたいです。やっぱり、標準機で学んだ先生が自分のラボをもって、学科で偉いポジションに就いて、学科の若い先生たちに標準機をばらまくくらいまでは続けてもらいたい。一世代やると先生も学生も組織にも知見が蓄えられます。

大学研究者は論文を書くことが仕事かもしれませんが、研究室は実用人材を輩出することも重要です。ラボでは性能が出て論文になっても、システムに組み込めない技術なんて、いくらでもあります。深層学習の超巨大モデルは残念ながら、まだ実用技術ではありません。いい論文と実装可能な技術の開発は両方とも取り組んでほしいです。そして学生さんにとっては卒業のための研究よりも、実際に動くシステムに仕上げるために格闘することは重要な経験になると思います。AIブームのように深層学習やってましたと書けば内定が出る時代は終わったと思います。こんな履歴書で採用されて、会社に入ってAI実装を任されたら不幸にしかなりません。実際に動くシステムに入れて、失敗しまくる経験は学生のうちにやっておいた方がいいと思います。

ロボカップやWRSでは九州工業大学の学生チームが連覇してます。研究室でなく、有志の学生たちが集まって開発してるチームが、東大などのチームに勝っています。九工大よりランキングが高い大学はたくさんあります。論文生産性の高い研究室もたくさんあります。論文自体が目的化しないように気を付けてる研究室もたくさんあるはずです。

今後も、産業界が研究プラットフォームを提供することは持続可能でしょうか。あるロボットに関連する学会のとっても偉い方に聞くと「日本は稼いでいる企業が少ないから無理。節税のために研究開発費を垂れ流せる企業にしかできない」と言われてしまいました。トヨタの技術者も社内への説明に苦労していて、HSRが終わったら、もう無理かもな、米国のIT巨人か、中国のプラットフォームに縋るしかないか、と考えてしまいます。お金やデータ、計算資源など、手離れのいいリソースで振興できるのはIT分野だけで、フィジカルな問題を解くには機体が欠かせません。HSRの価値はもっと評価されるべきです。トヨタイムズがんばってくれよ、なんのためにメディアやってんだよ、ぶさかわいいとこ推してくれよ、とささやかな媒体の記者は思うのです。

それでもHSRは約10年はやってこれました。この技術的人的資産は大きく、現行機の生産が終わっても、あと数年はプラットフォームの下支え効果が期待できます。

日刊工業新聞2021年10月11日

COMMENT

小寺貴之
編集局科学技術部
記者

浅田先生は「アカデミアはどんなエビデンスを示せばいいのか」と問いました。個人的には人材。これは間違いない答えです。次はプラットフォームを利用して世界の技術を日本が最も賢く使うことです。海外の研究チームは本当に優秀なとこに配ってます。米国、韓国、すごい成果を出していました。この技術の上澄みを一番賢く使えるのが日本の研究者であってほしいです。 ただ、競技会の前に数カ月間、学生に機体を触らせて、やっぱり動かないね。難しいね。とかいってる指導教員を見ると、学生のためにもならないのではないかと思います。苦労を経験させたいのか、出場が目的なのか、学生主体で運営できてるチームとの差すら、いつ埋まるのだろうか、プラットフォーム効果はいつ出るのかと思います。 どんなエビデンスを示せばいいのか、バトンは学術界に渡っていると思います。

キーワード
生活支援ロボット

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