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「こんなの食べ物の色じゃない」と言われた紅いもタルト、心くばりで地域を支える

「こんなの食べ物の色じゃない」と言われた紅いもタルト、心くばりで地域を支える

御菓子御殿が製造販売する「元祖紅いもタルト」

「元祖紅いもタルト」で知られる沖縄の菓子メーカー、御菓子御殿。那覇市の繁華街「国際通り」や那覇空港では、同社のトレードマークである紫色のショッピングバックを手にした観光客の姿が珍しくない。紅いもタルトは地元産品から生まれた6次産業化の成功事例。それは地域とともに歩む同社の経営姿勢にも重なる。

地元商工会の依頼で開発

沖縄本島中部、読谷(よみたん)村に御菓子御殿は本社を構える。景勝地「残波岬」のほど近く、周囲には畑と澄んだ海が広がり、高級リゾートホテルが点在する。読谷村は前身の「ポルシェ洋菓子店」を1979年に始めた創業地だ。当時から移設したもののいまなお本社・本店をこの地に置く。読谷本店はじめ大型直営店には工場を併設し、創業当初と変わらぬできたての菓子を提供している。

「忙しいので最初は断っていたんです」と紅いもタルト誕生の経緯を説明するのは、澤岻(たくし)英樹社長だ。2015年に創業者で母の澤岻カズ子社長(現会長)から経営を引き継いだ。

紅いもタルトを開発したのはカズ子社長時代の1986年。大分県から全国に広まった「一村一品運動」に読谷村の商工会も触発され、地元の特産品である紅いもを使った菓子をつくってほしいと依頼が舞い込む。「ポルシェ」は、本土復帰後に始めたレストランで人気だった菓子部門を79年に独立させた事業。小さな店舗から始まり、県内各地の大型スーパーマーケットへ納入するまでに業容を拡大していた。そのため開発依頼にまで手が回らず断り続けていた。だがカズ子氏と商工会の事務局長との地縁もあり、熱意に押される形でこれを受諾した。

「いもは天ぷらにするくらい。菓子にするなんて考えてもみなかった」と、当時すでに家業に入っていた英樹社長は思い返す。いわゆる和菓子も沖縄ではまだ一般的でなく、試行錯誤を重ねて試作品を何種類も考案。その一つがタルトだった。

澤岻(たくし)英樹社長

口コミで観光客への人気広がる

「こんなの食べ物の色じゃない」。ヒット以前に首都圏の百貨店催事で客に投げかけられた言葉だ。紅いもになじみのあった鹿児島などを除き、紫色をした斬新な菓子は県外での受けはしばらく良くなかった。いまや沖縄土産の定番だが、発売から10年ほどして軌道に乗るまで、紅いも菓子はあくまで地元向けだった。珍しい製品として県内メディアで取り上げられて話題になり、ヒット商品への階段を徐々に上っていく。

まず観光バスのガイドが気に入り、まだ小さかった店舗に観光客を引き連れるようになった。航空会社の機内食に採用されるようになり、客室乗務員や旅行会社の添乗員による口コミも手伝って人気は広がっていく。そして2000年の「九州・沖縄サミット」に連なる沖縄ブームにより、現在の地位を確固たるものとした。

「沖縄でつくった独自の菓子が珍しかった」(澤岻社長)こともヒットの一因だった。同社は沖縄の原料を使い、沖縄でつくる。タルトのあん部分には白あんなどを混ぜず、いも以外使わない。添加物を入れず賞味期限も比較的短い。こだわりであり、自信の表れだ。

ただ、ヒットの裏には原料調達の苦労があった。商工会から依頼された40年近く前には、いもの品質も収量も芳しくなかった。サトウキビへの転作者が多かったためだ。菓子の生産量が増す中で、いもの調達が間に合わないことも。届かぬいもにしびれを切らして畑で待っていたが、「『雨だから』『サトウキビの収穫で忙しいから』と掘ってくれないこともあった」と澤岻社長は笑う。

生産量や品質の課題に対しては行政や商工団体、農家と乗り越えてきた。村を挙げた特産品として生産量は増え、害虫に強い品種や食味の改良などは試験機関と連携して産地振興につなげてきた。2016年には濃いオレンジ色の「読谷あかねいも」を使った「いもいもタルト」を商品化して、新たな振興にも乗り出した。

御菓子御殿 読谷本店

農家が安心して作物をつくるには、需要側が買う姿勢を見せる必要がある。御菓子御殿は原料いもが不足しても、県外品や輸入品は一切使わない。数年前、いもの不作で製品を十分に供給できない事態に陥いるも、県外産には手を出さず品切れを出したほどだ。

逆に収穫量がだぶついた場合は、農家がいもを持ってくれば全量を買い取る姿勢を崩さない。農家を信じる。それが農家からの信用にもつながっている。

“まちの菓子店”貫く

観光客や県外者の目には、御菓子御殿は土産物メーカーとして映る。店舗には沖縄の文化を生かしてインバウンド(訪日外国人)ら県外客を楽しませる仕掛けを施しているからだ。例えば読谷本店では、沖縄の舞踊で用いる花笠の形をした巨大なモニュメントが迎えてくれる。国際通りの店舗も首里城のような外観。観光を基幹産業とする沖縄にとって、コンテンツとしての存在感も大きい。

だが澤岻社長は「自分の中では、お菓子屋でしかない」と話す。目指すのはあくまで地域密着の菓子店。地元に親しまれ喜ばれる店があり、その先に観光客が訪れる店があるとの考えだ。そのため観光バスが次々に訪れる直営店にも、日常使いに1個から買える単品商品を必ず置く。同社製品は地元スーパーへの卸販売のほか、ウエディングケーキや節句用、法事の供物用といった冠婚葬祭向け、給食向けと幅広く沖縄県民の生活に浸透している。

とはいえ土産品など観光関連の売り上げは全体の約6割を占めており、新型コロナウイルス感染症の拡大で少なからず打撃を受けた。インバウンドが店舗をにぎわせた光景は一変し、前年同月比で売上高がわずか5%にまで落ち込んだ月もあった。

苦境にあっても雇用を維持し、社員のやる気と知恵を集めて反転に備える。450人の従業員には若手や女性社員も多い。やる気のある人材は入社年次や年齢にかかわらず店長に登用する。また地域人材の育成にも力を注ぐ。学校の社会科見学やインターンシップなどは積極的に受け入れる。モノづくりに触れてもらいたいとの思いから実施している、小学生向けのタルト手作り体験も人気メニューだ。

読谷本店に併設した工場。ガラス張りで焼き上がりを見学できる

「思いやりとやさしい心くばりで地域社会に貢献します」とは、経営理念の一節。「やさしい心くばり」は創業以来受け継いできた思いでもある。「昔から知っている人からは、今も『ポルシェ』と呼ばれる」と澤岻社長はうれしそうに話す。企業規模は拡大すれど、根底にある「思い」は何ら変わっていないからこそ、このように親しまれるのだろう。

沖縄には「オリオンビール」という県民にとって不動のアイコンがある。澤岻社長は「私たちの商品も同じような存在になりたい」と夢を語る。コロナ禍にあっても「積極投資を通じて、他社にまねできないことをやり続ける」とこの難局を地元・沖縄とともに乗り切る構えだ。

【企業概要】
▽所在地=沖縄県読谷村宇座657-1▽社長=澤岻英樹社長▽創業=1979年▽売上高=40億円(2020年6月期)

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