変わりゆく日立、それでも変わらない日立。“製造業”の面影どこまで
「工場を食わせるという発想から脱せよ」(中西会長)
HDDはダイバーシティー
2003年にハードディスク駆動装置(HDD)事業を米IBMから買収。創業来最大のM&Aとして話題になったが、融合に手間取り赤字続き。一時は投資ファンドへの売却もうわさされた。
騒ぎをよそに、黙々と生産改革に取り組んでいた男がいる。日立グローバルストレージテクノロジーズ(日立GST)日本法人取締役HDD製造・生産技術本部長の堀家正充は日本IBM出身。IBMのタイ新工場立ち上げから加わり、98年から06年までの丸9年間タイに駐在した。
「いかに固定費を増やさず生産性を上げるか」―。堀家は約1万人いる従業員の意識改革から、製造装置の調達まで見直した。タイ人技術者には一つの業務をクリアするごとに、次は高いレベルの課題を与えた。今では装置のソフトウエアをプログラムできる人材は6人。「日本人の後任は現地スタッフというのがIBM時代からのポリシー」と堀家。
HDDの製造装置は標準化されていないため、メーカーの競争力に直結する。数百万円するサーボトラックライターは日本のサプライヤー1社から調達していたが、去年からシンガポール企業との2社購買に切り替え、費用は25%程度下がったという。
最近、堀家が最も力を入れているのが検査工程の自動化。米シーゲートなどに比べ遅れている領域だ。今はテスターでHDDを240台ずつ検査している。「次世代型はロボットが1台単位でやるから工程の流れがスムーズになる」。6月には1号機が導入される予定だ。
その検査装置の開発に深くかかわっている研究者が日本にいる。生産技術研究所(横浜市戸塚区)に所属する井上麗子だ。まだ1年生社員。昨年の入社式では総代として、会長兼社長の川村隆を前に「生産技術で地球環境問題に貢献したい」と堂々と語った。
井上は小さいころから機械いじりが大好きだった。大学ではロボット工学を専攻。生産現場がたくさんあり自分のスキルを最も生かせると感じたのが日立。研修に行った大みか事業所をみて、「RFID(無線識別)が活用されスマートだったが、モノの動かし方で気になるところがあった」と新人らしからぬ眼力をみせる。
配属になって最初の仕事が日立GSTの検査自動化プロジェクト。現在、週に3回程度、堀家らがいる藤沢事業所に出向き、約30人の開発チームの一員として研究所側からの提案を投げかける日々。「知識が全然足りない」と未熟さを痛感するが、事業の前線で働きたいという感情も沸いてきた。
次期社長の中西宏明は、米日立GSTの最高経営責任者(CEO)時代に、ライバル会社から現CEOのスティーブ・ミリガンなどを引き抜き「新しい血を入れて経営を活性化させた」。2期連続黒字化の背景は、ダイバーシティー(多様性)の浸透がある。
“白黒つけない”家電
この20年。家電事業は元社長(現相談役)の庄山悦彦とともにあった。重電出身の庄山が家電畑に転じ、上場販売子会社の本体吸収に手腕を発揮。社長昇格後はテレビ用薄型パネルへ大型投資し、収益が厳しくなると分社を選択した。「家電の日立」を何とか死守したい、という執念はすさまじいものがあった。
庄山が栃木工場長(現日立アプライアンス栃木事業所)に就任した1987年。同工場で最悪状態強制確認試験が始まった。現在、3万ボルトの電力を流せる試験室で、コネクター部にニクロム線を巻き付け通電させ、接触不良などによる発火を未然に防ぐ安全確認を繰り返す。品質にこだわる象徴だ。
冷蔵庫のセル生産で最後の総組立工程。約230もの作業を、熟練技能者1人がお立ち台に上りペダルを踏みながら丹念に仕上げていく。日立アプライアンス常務の石井吉太郎には、国内をマザー工場として残すという強い思いがある。「白物の技術は部品や品質などのすり合わせ。このこだわりが正しいかは後世が判断するだろう」(石井)。
一方、事実上マザー工場がなくなったのが「黒物」、デジタル家電だ。変節点は07年だった。薄型テレビで一気呵成にグローバル市場に攻め込むため、プラズマディスプレーパネルの増産投資に踏み切る。ところが海外での販売不振から、在庫の山と赤字を抱えた。
国内に事業を集中することになり、08年4月に立ち上げたのが「マーケットプロジェクト(通称Mプロ)」。設計や営業などややもすると部分最適に走りがちな製品づくりを、社内横断のMプロ主導に切り替えた。
責任者の日立コンシューマエレクトロニクス商品戦略企画部長の山内浩人を中心に、毎週1回の本社(東京・大手町)での会議。「最初は参加者も少なかったが、徐々に意識が変わり始めた」と山内。以前なら途中変更を嫌がった設計部門だが、09年春モデルは当初予定していた人感センサーの採用を見送った。
テレビ設計者数はほぼ半減。Mプロメンバーで製品設計部主任技師の松本健一は「付加価値を出すことが難しくなっている」と危機感を募らすが、顧客ニーズと原価管理を大局的に把握できるようになったという。09年10―12月期はテレビの製品損益が黒字化。国内販売の損益分岐点は年100万台まで下がった。
しかし山内らが見据えるのは構造改革の先。国内はアナログ停波以降の反動を考えると、大きな伸びは期待できない。海外も韓国サムスン電子が年3000万台という水準に達し、身の丈を縮めた日立が急激に海外を伸ばすことは難しい。
活路はある。日立が注力する社会インフラは何も屋外だけではない。「テレビは家電、家庭全体を制御するプラットフォームになれる」と山内。次期社長の中西宏明は「家電は省エネルギー化で大事な事業」と話す。「白」と「黒」の融合は次の20年を左右する。
研究開発は「変人」から
「返仁会」―。博士号を持つ現役社員とOBの集まり。日立創設者の一人である馬場粂夫が、優れた自主技術を持つ人材育成を目的に発足。会員数は約2200人で、研究者を中心に「知の集積」の象徴である。返仁会会長の中村道治は副社長、フェロー(研究者の最上位職)などを務めた。「日立の研究開発はストック型。世の中が変化する時、企業内部に独自技術の蓄積がなければ対応できない」と中村。
「研究開発力が落ちているんじゃないか?」―。執行役常務研究開発本部長の小豆畑茂は、最近先輩からそう言われることが多くなった。小豆畑は「それは業績がよくないから。学会発表が多くても事業に貢献しなければ最終的に評価されない」と割り切る。
小豆畑は入社後、日立研究所に配属され、すぐに石炭燃焼の開発をまかされた。1年目から1000万円以上の予算を与えられ実験装置も作った。30歳で早くもチームリーダーに抜てき。富山新港火力発電所に納入した商用1号機が運転する前後は「夜も眠れなかった」という。
今は小豆畑の現役時代と体制や仕組みも違う。まず研究者の数が減った。研究開発本部に属す人員は約3400人でピーク時の6割の水準。また日立本体の資金拠出余力が低下、結果的に工場などの事業部門やグループ会社などの「依頼研究」が増える傾向にある。現在、研究開発費に占める依頼研究の割合は約7割。
かつては聖域といわれた「特別研究(トッケン)」。多くの研究所や工場から人材を集め特別予算が組まれる。今は約20のプロジェクトが走っているが、より事業化を意識した内容に変わりつつある。最近では04年に垂直磁気記録型のハードディスク駆動装置がトッケンに指定され、06年には製品化にこぎつけた。
企業研究所でユニークな存在といわれる本田技術研究所。ホンダから別会社として独立、本体へのライバル意識も強いが、ホンダの歴代社長はすべて研究所のトップ経験者という表裏一体の関係。昨年、ホンダ社長に就任した伊東孝紳は緊急避難的に二つの社長を兼務した。伊東は「早期に経営と技術部門の方向性を一致する必要があった」と振り返る。
日立では相談役(元社長)の金井務がもとは中央研究所出身。研究開発のガバナンスやトップの選考基準は各社各様だが、技術主導と市場密着のバランスは恒常的な課題として残る。「原子力などエネルギー関係は40―50年研究してもまだ実用化されないものもある」と小豆畑。
昨年4月に発足した次世代電池研究センターの陣容は約60人。世界各国が研究開発でしのぎを削る分野だ。返仁会は一時、「変人会」に名称を変えたが、「高度の発明は変人以外に期待しがたい」という馬場の持論から。日立は変人を吸引する力を維持しなければならない。
車両工場「笠戸改革」
3年前。大みか事業所(茨城県日立市)で生産技術のシステム開発をしていた荒川賢一は、副社長の森和広から突然呼び出された。「笠戸を変えてくれ」。1年後には英国向け車両と新幹線の受注が重なり、生産がピークを迎える。それから、荒川は1週間おきに大みかと笠戸事業所(山口県下松市)を往復する生活が始まった。
「さぁ、どうしたものか」―。まず一筆書きだった生産ラインを新幹線とそれ以外の2本に明確に分けた。そして最初に手をつけたのが空調工程。「このままで車体に手を付けたら納期や品質が守れない」。荒川は頭をフル回転させた。
大みかの3次元CAD・CAMシステムを設計だけでなく製造や検査工程に導入。図面が手放せなかった工員はビューワーをみて作業するようになった。
そして徹底的にこだわったのがライン横での「外段取り(アウトワーク)」。部品取り付けや配管・配線などできる限りの作業を外段取りし、モジュール化して本体に差し込むだけ。
これは床下の電機品取り付けなどの工程にも採用した。以前は空調の生産ラインに8人も配置していたが今は2人。「空調は検査も入れて8時間を目指す」と実質半減を狙っており、荒川に妥協はない。
空調改革は工場の好循環を生む。空いたスペースに結線工程の建屋を新設。3層の構造で床下、客室、天井の多重作業が一気にできる。英国向け車両の艤装(ぎそう)はこの建屋で完結させ、最も繁忙だった08年夏をしのいだ。
荒川が今でも試行錯誤するのが艤装。見直しに着手して1年半になるが、「職人技術だけに理想通りなったことは一つもない」と謙遜(けんそん)する。それでも車両をくるりと上下に反転させ、天井モジュールを取り付けやすくするなど改善に余念がない。
現在、生産はピークアウトした。荒川自身も09年4月に笠戸事業所副所長の辞令が下り、次の改革を見据えている。本来なら3月にも受注が決まるはずだった英国「IEP(都市間高速鉄道車両置き換え計画)」向けは契約延期に。荒川は「逆に生産改革や人材育成の時間ができるチャンス」ととらえる。
ただ生産量の変動が激しいと在庫管理が難しい。外段取りが定着したことで工程ごとに在庫は減った。車両在庫は一時180車両もあったが今は115車両。荒川の理想は40車両。「それにはラインをもっと細分化して、早く四つにしたい」という。
荒川と二人三脚で笠戸改革を進めてきた事業所長の中山洋。2009年度から設計など工場側にIEPの費用負担が発生しているが、「この工場はプロフィットセンターであり続ける」と決意をみせる。今の陣容でIEPとブラジル向けモノレールを狙うという。
荒川の夢は1日に50センチメートルずつ工場を変更し、3年前にみた風景と比べ影も形もないようにすること。「あと10年はかかる」と笑う。
インフラ制御の聖地へ
1970年、次期社長の中西宏明は大みか工場(現大みか事業所)で日立でのキャリアをスタートさせた。昨年9月に大みかを訪れた中西。自身が日立を率いる確信はまだなかったが、社会インフラで成長を目指す中、ここが重要な拠点になる確信めいたものがあった。
大みか出身の社長が初めて誕生する。しかし事業所長の椙山繁は「うれしさより厳しさの方が大きい」という。椙山は中西から10年遅れで大みかに配属された。敏腕設計者として、鉄鋼圧延プラントの制御システムで世界初の製品を送り出した経験もある。今は秒単位でのリードタイム短縮を考える毎日だ。
電力や鉄道などの大型システムから小型計算機の制御装置までの多品種少量生産。しかも板金加工やプリント基板から内製化している。設計者の図面データをいかにスムーズに製造現場に落とし込むか―。その解が3次元CAD/CAMによる情報転写だった。
屋台と呼ばれるプリント基板のセル生産現場。「昔は図面を読める人が腕のいい技術者だった」(椙山)。今はどの作業員でも、ビューワーで組み付ける部品がすぐに視認できる。電動工具は通信機能付きだ。例えばネジ締めは工具からトルクアップの信号を受け取らない限り、次の画面に進めない仕組みになっている。
リードタイム管理に威力を発揮しているのが、04年から導入している無線識別(RFID)タグ。作業員の胸章、入荷部品、作業指導票など、事業所内のあらゆるところにタグが付いている。累計導入数は8万枚超。作業員はセル生産現場の入退室時に指導票を所定のボックスに差し込む。これにより業務工程の情報を、すべてオンラインで「見える化」した。
昨年6月にはプリント基板現場に巨大な電子掲示板を設置、リアルタイムで約30の工程を動態監視している。10分単位で更新され、ある工程で遅れが発生すれば人員を配置換えする。常に最適を求める体制を整備しているが、「今がベストではない。世界市場を見据えコスト競争力のある生産システムへ改善し続ける」と椙山。
今年1月。あるアフリカの資源国の視察団が大みか事業所を訪れた。スマートシティー(次世代環境型都市)などを検討しているという。
グローバル競合相手は重電ならドイツ・シーメンス、ITなら米IBMなど。ただ大みかのようにシステム設計から製品生産までの一体工場を持つ企業は珍しい。「社会インフラ制御なら大みかを見ろ、といわれたい」(椙山)。中西個人でなく、日立全体のマザー工場になる日も遠くない。
モノづくりDNA
日立レールヨーロッパ(英国ロンドン)の尾島啓文は、1990年に日立製作所に入社した。最高益を上げた年だ。日本で鉄道車両の営業を担当、ロンドンに赴任したのは最初の入札が迫った大事な時期だった。契約時に驚いたのは、あり得ない想定事項を延々議論する弁護士たちだった。
「列車が戦時徴発されたらどうするか」―。契約予定日は05年5月31日。調印が終了したのは日が変わって夜中の3時だった。「ビジネスのコアでない部分で理解に苦しむところはある」と尾島は話すが、グローバル展開への洗礼と受け止めている。
鉄道事業の海外売上比率を15年度に60%(現在25%)まで引き上げると打ち上げた日立。カナダのボンバルディア、独シーメンス、フランスのアルストムの“鉄道ビッグスリー”に比べ納期、品質などは勝る。
しかし尾島は「保証期間が終わると精鋭部隊が別の市場に移り、せっかく築いた顧客との関係が希薄になってしまう」という。鉄道に限らず欧米勢は、多国籍企業として新興国でインサイダーとして振る舞っているのが強みだ。
今月19日。会長兼社長の川村隆は北京にいた。中国国家発展改革委員会(発改委)の幹部らと日中合作の環境プロジェクトについての具体的な話し合いがスタート。同席した日立中国総経理の川野薫は、感慨と緊張が入り交じっていた。
「中国で環境事業を」―。全社で号令がかかったのは05年ごろ。川野は06年に上海、08年から北京にある統括会社のトップになった。地場企業の関係者約700人を招待し技術交流会を開いたが「最初は絵に描いたもちで商売には壁があった」と川野は振り返る。
発改委と関係を徐々に縮め、雲南省の省エネルギー案件を獲得、“環境の日立”が定着しいく。現在、日立グループの中国の人員は6万2000人で日本に次ぐ規模。労働組合に相当する「工会(こうかい)」もつくった。それでもロビー活動は、「大使館に企業人が加わっている」(川野)欧米に比べ見劣りする。中国での現地化は緒についたばかりだ。
電力システム社火力技術本部長の佐藤和夫は、プロジェクトマネジメント(PM)の責任者。多い時には週に2、3回、ドイツ子会社「日立パワーヨーロッパ(HPE)」とテレビ会議でやりとりをする。日立事業所のタービン発電機と、HPEで生産したボイラを組み合わせて収めるケースも増えてきた。
佐藤は「買収時からローカルでマネジネントする考えだった」という。欧州や南アフリカ向け案件のPMはすでに現地主導。この1年で日本の工程管理の手法も注入した。しかしガスタービンを世界展開する米ゼネラル・エレクトリック(GE)は「リスクのある工事付きは絶対にやらない。徹底している」と佐藤。リスクコントロールは最大の課題になる。
日立事業所で若手に発電機のモノづくりを指導する大森国久は、日立全社で27人しかいない「工師」の一人。工師は卓越した技能と経験を持つ作業者の最高位で、金バッジが与えられる。大森はつい先日もドイツに出向き、据え付けや現場を指導してきた。
大森が日立事業所に入って40年。昔とは工場の風景は様変わりしたという。それでも脈々と続くDNAがある。「人づくりしながらモノづくりしていること。我々からそれをとると日立ではなくなる」と大森は力説する。
大森は企業内学校「日立工業専修学校」の出身。卒業生の現役社員は3500人で、校長でOB会の名誉会長も兼務する和久井勇人は「日立社内で最大の学閥だ」という。スローガンは「われら日立の底流たらん」。和久井らは中国にも開校したいという。
4月1日、第10代社長に就任する中西宏明。「市場の核になるところにマネジメントスキームをつくり真のグローバル企業を目指す」という。先日、会長職に復帰した韓国サムスン電子の李健煕は「今が本当の危機だ。一流企業が崩れている。サムスンもいつどうなるか分からない。また始めなければならない」と社員に強烈なメッセージを発信した。
変わりゆく日立。それでも変わらない日立。今日も歴史とともに歩んできた人々が「グローカルな現場」で、明日の日立を形作っている。
(敬称略)
※内容、肩書は当時のもの