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変わりゆく日立、それでも変わらない日立。“製造業”の面影どこまで

「工場を食わせるという発想から脱せよ」(中西会長)
変わりゆく日立、それでも変わらない日立。“製造業”の面影どこまで

日立が買収した鉄道車両メーカー、伊アンサルドブレダのピストイア工場

2010年3月、日刊工業新聞で「現場研究 日立製作所編」を11回にわたり連載した。中西宏明氏が社長になる直前、創業100周年の年だった、連載は主に国内のモノづくりに焦点を当てたものである。その後、中西氏の社長・会長時代の8年間で、日立の事業環境は様変わりした。

 中西氏は次期経団連会長への就任が内定している。経団連の榊原定征会長は自身の後任候補として「製造業出身」を重要視していた。日立はこれまで徹底して製造業を貫いてきて、工場のオペレーションについては相当訓練されている。多くの失敗をバネに改善していくことに長けた人は数多くいる。しかし中西氏は「これからはその延長線だけじゃ全然ダメ。工場を食わせるという発想から脱せよ」と社内外に発信してきた。

 記事を振り返りながら、日立、そして日本の製造業の変革を考えるきっかけにしたい。

101年目へ人磨き続く


 日立製作所は日本の製造業の象徴であり誇りだった。昨年、創業100周年を目前に過去最大の赤字という屈辱を味わう。こんなところで立ち止まっている暇はない。日立の技術やサービスの実力が、世界で認められる方向に時代は流れ始めている。苦闘しながら、それでも挑戦し続けるモノづくりの最前線を追う。

 JR勝田駅(茨城県)から車で5分ほど行くと、「デジタルメディア」という巨大看板が見えてくる。かつては東洋一のビデオ録画再生機の工場だったが、今は車載用リチウムイオン電池の量産拠点に変わった。しかし残った音響・映像(AV)機器の技術者は、電池を制御するにはうってつけの人材。さらに昨年4月には、プラズマディスプレーパネル(PDP)の撤退で九州から約50人が加わった。日立ビークルエナジー社長の川本秀隆は「彼らは宝だ」という。

 化学材料の塗布や製造ラインの長さなどはPDPとプロセス管理が似ている。技師長の坂田有三は「電池は技術が人に付く典型的な製品」と話す。坂田も新神戸電機からの転身組で、電池開発に40年かかわってきた。産業構造転換のシンボリックな姿だが、そこにはプライドも垣間見える。

 日立事業所タービン製造部長の原孝司は、今でも2006年6月に起こった浜岡原子力発電所(中部電力)の事故を忘れない。当時、原は圧力プレートの製造担当。不眠不休で翌年1月には運転再開にこぎ着けた。

 現在、タービン製造部の人員は1200人。原は日立の中で最も部下の多い部長である。特に原子力発電や火力発電用の羽根など品質管理に神経を使う部品が多い。「ある所までは形式知にすることはできるが、最後は自分の技能と経験」。原は個人と組織を育成するバランスを日々考えている。

 鉄道車両を生産する笠戸事業所(山口県下松市)。事業所長の中山洋は2年前、テコ入れの命を受け日立事業所からやってきた。最初に来て驚いたのは意識の違い。「日立事業所は良きにつけあしきにつけモノをつくる執念が強い」。

 しかも笠戸は国鉄からJRに変わる時に大量に人員を削減。ほかの事業所なら現場リーダーは40歳半ばから50歳前半だが、ここは30歳代が中心。ただ時間は待ってくれない。英国向け車両の大量受注契約が迫っていた。「一人前の設計者になるには10年はかかる」と中山。昨年から2週間に一回、丸一日かけ設計教育講習を開いている。

 今では少なくなった企業内学校「日立工業専修学校」(茨城県日立市)は、長期的視点にたった人づくりの出発点。6年ほど前、廃校の危機にさらされたことがある。年100人の中卒生が入学していたが、日立側からの求人が半減したためだ。しかし、当時社長だった庄山悦彦の鶴の一声で存続が決まった。

 学校を監督するモノづくり教育本部長の飛田和彦は、長く勤労・人事畑を歩み日立の「人の流れ」を見てきた。飛田が入社した35年前、日立の国内従業員8万5000人のうちブルーカラーは4万5000人もいた。今は4000人。比率も10分の1に減った。

 しかし飛田は「これ以上国内生産はどんどん減らないだろう」と見る。逆に年200人規模の新人現場作業員を送り込まないと、技能伝承に支障が出るという。高校課程2年の戸村侑司は福島県からやってきた。夢は「技能五輪に出て海外で勤務すること」。

 日立をどんな会社にしたいか?―。社長就任が内定した最初の会見で中西宏明は「人を生かし技術を生かす」と宣言した。いろんな人たちの思いを背負い、中西はもうすぐ「101年目」に向け歩き出す。

よみがえる総本山


 創業100年で社史の新刊編集作業が進んでいる。相談役(元社長)の庄山悦彦が自らこだわって手を加えたのは、1985年に運転を始めた日本初の核融合実験装置「JT―60」。受注時、庄山は日立工場の敏腕設計部長だった。

 日立事業所長の石塚達郎は核融合技術の開発に携わりたくて日立に入った。若き日の石塚は、ダイナミックに人が動く新規大型プロジェクトを目の当たりにし、日立工場マンとして高揚感を味わった。

 ここ数年は海外向け電力設備需要が好調で事業所は活気にあふれている。中国向け100万キロワット級の火力用発電機は出荷間近で作業も慌ただしい。しかし石塚はこの1年、「徹底した見える化」による地道な改善活動を優先してきた。副事業所長の南雄彦とともに週に一度、「グリーンカード」と「レッドカード」を持って工場内を巡回している。

 モーターやポンプなどを生産する山手工場は、一時は価格競争力を失い停滞していた。事業縮小で設計部門に統合されていた製造部門を昨年4月に復活。何十年も改善提案のなかった風力用発電機チームが最優秀の「馬場賞」を獲得。石塚にとって望外の喜びだった。

 今年2月に発電機を生産する電機製造部長に昇格した大源伸次郎は、事業所全体の「モノづくり統括活動」のメンバー。「最初は抵抗もあったが、自動車業界など外部からのノウハウも取り入れた」。ローター(回転子)の加工・組み立てなどメーン作業の時間短縮だけでなく、治具や発送品の配置も緻密(ちみつ)に変更したという。

 去年の夏。プエルトリコから急きょ発電機ステーターコイル(固定子)の取り換え発注がきた。もともと日立の機械ではない。「以前なら断っていたかもしれない」と大源。目立たないが工場内のコイル組み立て現場を整理整頓し、在庫管理を徹底していたことが生きた。材料調達から出荷までわずか1カ月。先方の期待に見事応えてみせた。

 通常、事業所全体の原価低減目標は年3―5%。石塚は円高に先手を売ってガスタービン発電機などには15%以上の数字を設定した。大源らの製造部隊、そして設計部門、外部のサプライヤーも連携しほぼ達成が見えてきたという。

 歴代の日立の社長は日立工場長、副工場長の経験者がほとんど。かつての工場長は王様のように絶対的に君臨する存在だった。工場長(現事業所長)の執務室は本館2階奥。今も変わっていない。JT―60の設計図面は輝かしい栄光として残っている。

 しかし「昔は工場から出すものを売って商売していた。今は工場の中だけで事業を回せる時代ではない」と石塚。“長男工場”として良き伝統と新しい成功体験を発信する役割を期待されている。

「ABWR」先駆者の進化


 戦艦「大和」を建造した旧呉海軍工廠―。バブコック日立(広島県呉市)の工場内には砲塔をつくっていた巨大な穴が当時のまま残っている。通常、穴のふたは閉まっているが、2―3年に1度それが開く。穴は原子炉圧力容器の耐圧試験にうってつけの形状をしている。

 バブコックはこれまでに炉心の入れ物になる圧力容器を17基生産。日立事業所とともに原子力機器の中核拠点だ。現在は2011年11月出荷予定のJパワー向け改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)の作業が佳境を迎えているが、耐圧試験までにはまだ時間がかかる。

 現場を統括する第2製作課長の井倉隆一は、圧力容器の生産部門に所属して15年。その頭脳には技術や品質など競争力のノウハウが詰まっている。「肝は高水準の溶接技術」と断言する井倉。

 理由の一つが、制御棒が容器の下から出入りするBWRの構造。機器の一部に不具合があった場合、制御棒が上ぶたについている加圧水型軽水炉(PWR)に比べ作業のやり直しが難しい。そのため、容器下部の制御棒駆動機構の溶接は、極限の精密さが求められる。

 容器の中では4人の工員が、小型ロボットを使いながら丹念にニッケル合金を溶接していく。この技術を持つ溶接工は社内に約10人。「工程日数は誤解を受ける数字なので説明しにくい」と井倉は笑う。競合会社に知られたくないということだろうが、そこには確固たる品質への自信がみえる。

 タービンなどを生産する日立事業所。06年の中部電力浜岡原子力発電所の事故を契機に品質体制を徹底的に見直した。数千本もあるタービンの羽根は、電力会社立ち会いですべての外観を確認。表面の粗(あら)さまで二重、三重で検査することもある。

 検査時間は以前に比べ2―3倍になった。事業所長の石塚達郎は、それも当然と考える。事故当時、原子力部門の副事業所長として対策室の責任者だった石塚。「ほかの製品も原子力並みの品質に上げる。原子力はもっと特別にやる」。工場内の原子力関連機器のまわりには注意喚起する赤い旗がなびく。

 アラブ首長国連邦(UAE)アブダビの新設案件に応札した日立。副社長(次期社長)の中西宏明は受注した場合、一気に物量が増えるため原子力製造部門の分社や新会社設立も想定していた。バブコック日立も海外展開になると、今の工場では手狭。プラント技術本部長の斎藤由男も対応策を考えていた。「我々の技術指導で欧州のメーカーにつくってもらう」。

 しかしアブダビは韓国連合が落札。利益が出ない落札価格といわれ、業界には品質劣化を懸念する声がある。ただ中西は「負けは負け」という。グローバルで戦うには、“日立品質”だけでは押し通せない。

ミッドアメリカンのトラウマ


 「ミッドアメリカンはトラウマ」―。米国で受注した石炭火力案件で工期遅れが発生、約300億円の赤字を出した。電力システム社火力技術本部長の佐藤和夫は、プロジェクトマネジメント(PM)の経験が長い。その知見から今は米国で工事付きの案件はあえて取りに行かないという。

 海外は競争が激しく、ぎりぎりの金額で勝負することが多い。現在、収支が厳しい四つの受注案件を特別に指定。プロジェクトマネジャー主催による「コスト会議」を月に一度開いている。昔はコスト権限は工場の設計部長が握っていたが、事業部側に移った。

 コスト管理手法で効果を上げているのが「フェーズゲート」。工程ごとに門を設け事業の進ちょく状況やリスクを確認、次の段階に進むかを決める。

 以前に比べフェーズの数は増えた。さらに受注前の段階で厳しいふるい落としの基準を設けている。一方、門番役のプロジェクトマネジャーの育成も欠かせない。今は輸出担当で30人規模。ただ「20年選手でないと海外の大型システムは難しい。5年で10人ぐらいは増やしたい」と佐藤。

 欧州駐在が長かった副社長(次期社長)の中西宏明。日立は2003年にドイツのボイラ会社を買収。「かなり現地化が進んでいる」という。欧州や南アフリカの案件は現地に権限移譲するケースが多い。それでも予想外のトラブルが発生する。

 特別指定になっているドイツ・ヴァルズム発電所。工事開始後、土木会社が倒産。工期が約半年延び費用も増えた。火力や原子力プラントの場合、建設工程の管理が最も難しい。地域ごとに労働組合の条件も違う。ミッドアメリカンを経験した担当者を充てるなど過去の経験値を注入している。

 07年からフェーズゲートを本格導入した情報・通信グループ。同グループプロジェクトマネジメント統括推進本部長の建部清美は「ゼロではないが赤字案件は減っている」という。過去、案件によっては50億円以上の赤字になったケースもある。

 情報システムは細かいものを含めると受注は年2万件。うち基幹システムなど比較的リスクが高いものを120―130件重点監視している。火力などと同じように「見積受注前の案件審査が重要」という建部。品質、納期、コストの3点で成功率を評価、06年に比べ約10ポイント上がった。

 システムソリューション事業は海外展開がほとんどない。「早く全社の海外売り上げを6割にしたい」という中西の思いもあり、全社横断的なPM活動も活発化。32のグループが参加するPM部会を立ち上げ、毎月作業部会を開き全社にノウハウを公開している。モノづくりを重視してきた日立。PMはその進化の指標でもある。

車載電池の未来


 日立ビークルエナジーの東海事業所(茨城県ひたちなか市)。緑の多い工場内や近隣の一般道を、電気自動車(EV)「ハイパーミニ」が走っている。日産自動車が2000年に日本で初めて発売したEVだ。

 同事業所では10年間、車載用リチウムイオン電池を量産してきた。これまではトラック中心に供給してきたが、今年からいよいよ米ゼネラル・モーターズ(GM)向けハイブリッド車を皮切りに乗用車へ本格参入する。昨年10月には、月産能力30万個の新しい生産ラインが稼働した。

 ラインを自分の子どものように眺める技師長の坂田有三。坂田は初代の社長で、すべての工程を丹念に“味付け”してきた。「電池は半導体や液晶と違ってまだ作り方が標準化されていない。一つひとつ解明して装置や材料にフィードバックしている」。坂田には古き良き日本人技術者の風情が漂う。

 電極の加工などの前工程は検査以外ほぼ自動化。ただ電極タブ数は百数十で、携帯用などの民生向けに比べ溶接点がはるかに多い。電極材料の厚みなどによって、装置や室内温度など設計条件を微妙に調節している。

 生産リードタイムは約1カ月。その中で最も時間がかかるのが、電気化学反応で異物が混入しているかをみるエージング工程。坂田らには苦い思い出がある。電池内部の短絡が原因で、一度だけ供給したヤマハ発動機の電動バイクがリコールを出した。「足腰が鍛えられた。時間短縮よりもとにかく品質」(坂田)。

 坂田は、電池研究の第一人者として岡山大学などで教授を務めた平井竹次の門下生。同窓には電池メーカーの幹部経験者も多い。国内の大学で電池専門の研究室は数少ない。しかも日本の電池技術者は世界的にみてもレベルが高く貴重な存在だ。

 最近は電池分野で韓国勢の追い上げが激しい。GMが来年初めに投入予定のEV「シボレーボルト」は、LGケムが供給する。日本の技術者に対し、韓国などから年俸5000万円以上で引き抜きの話もあるという。つい先日もGMのシボレーボルトの開発責任者が突然退社した。ドライに人材が動く外資。

 ビークルエナジーの工場にはGM向けに出荷するものと同じ電池パックが置いてある。32個の電池をブロックで囲み、制御基板や温度センサーなどを付けてモジュール化したものだ。それでもまだ何か問題はないかと坂田は探求する。

 17日に回答日を迎えた春闘。期間中、労務担当常務執行役の大野健二は、「日本は会社間移動が少なく安定成長していくことが大事。そこがパッとしないところかもしれないが…」と漏らした。定期昇給のなど従来の賃金体系に限界があるのも事実。原子力発電所の受注でも攻勢をかける韓国。大野の迷いは、坂田らに続く次の世代を育成していけるのかという迷いでもある。

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明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役ブランドコミュニケーション担当
こう読み返すと、HDDは売却し火力機器事業も三菱重工との合弁に切り離した。原発は国内で新規案件がなく、英国のプロジェクトもどうなるか分からない。鉄道はイタリアのアンサルドを買収したことで「工場」は増えた。  中西さんがここ3ー4年言い続けていること。「工場ではなく、お客さんに近い営業の前線がプロフィットセンターにならないといけない。この原材料はいくらで買って製造コストはこれだけだから、いくらもうかります、というモデルでは、もう通用しない。自分たちのソリューションを提供することで、お客さんの売り上げが増え、どのくらいコストを下げられるから、得られたプロフィットを『7対3』とか『6対4』でシェアしましょうという発想・説明をしなければいけない。顧客体験をどう創るかが競争軸だ」と。  この前、中西さんにお会いした時にニトリを引き合いに出し、「似鳥さんは『うちは小売りじゃなくて製造業ですから』と言う。逆に、日立のような伝統的な製造業がサービスを目指している。事業はシフトしてくものだから、どちらも正しい。問題は事業ポートフォリオや会社組織を変えていけるような経営者をどう育てていくかが課題」と話していた。経営者もそうだが、良くも悪くも現場の意識は、8年前に比べそう大きく変わっているとは思わない。それは中西さんも同意見ではないか。

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