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昔も今も残された側は嘆き悲しむしかない…新たな“死のデザイン”が必要

作家・片山恭一
昔も今も残された側は嘆き悲しむしかない…新たな“死のデザイン”が必要

古来、人々は渡り鳥を魂の運搬者と信じていた

死者を空間的な隔たりとともに追想することは、ぼくたちの思考に深く根差した習わしらしい。『源氏物語』の冒頭で、寵愛(ちょうあい)した桐壷の更衣に先立たれた帝が歌を詠む。

たづねゆくまぼろしもがなつてにても 魂のありかをそこと知るべく

歌のなかの「まぼろし」は通常、「幻術士」と現代語訳される。もとは白居易の『長恨歌』にいう「道士」のことで、あの世とこの世を往来して、死者の消息を尋ねることのできる魔法使いやシャーマンに近い存在だったらしい。

鳥くら立て飼ひしかりの兒巣立ちなば 真弓の岡に飛び帰り来ね

東アジアの諸地域では古来より鳥は魂の運搬者と信じられていた。人の霊魂は鳥によってもたらされ、また鳥になって去るという考え方があったようだ。特に水辺に飛来する渡り鳥は、遠く霊界へ去った死者たちの魂が、時を定めて帰ってくるものと考えられていたという。『万葉集』にある日並皇子(草壁皇子)に献じられた歌には、皇子がかわいがっていた鳥に託して死者の魂を呼び戻そうという招魂の意が込められていたはずだ。

あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢(あ)ふこともがな

わたしが死んであの世に行ってしまってからの思い出のために、もう一度お会いしたいのです。小倉百人一首で有名な和泉式部の情熱的な歌。ここでも自らが死者として赴く場所は「あの世」として空間化されている。

どの歌も古代や前近代の迷信や迷妄に彩られたものとは読めない。もっとストレートにぼくたちに響いてくる。これらの歌に流れている音色は、現代人の心をも容易に共鳴させるものだ。

あの世とこの世は空間的に隔てられている。この隔たりを媒介するものとして「幻術士」や「鳥」や「思い出」が歌の主題になる。だが、どんな歌を詠んだところで詮なきことに変わりはない。

空間化され、実体化された死は人を悲嘆に暮れさせる。残された者は、昔もいまも嘆き悲しむ以外になすすべがない。新しい死のデザインが求められているのかもしれない。

日刊工業新聞2021年1月29日

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