最愛の人の死をどう乗り越える?『源氏物語』は大空を渡る「幻術士」に託していた

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『源氏物語』は最愛の人の死からはじまる。ときの帝は一人の更衣を溺愛している。更衣は身分の低い妃で、寝殿は内裏のなかでも北東の端にあった。別名桐壷と呼ばれることから、この薄幸の更衣は桐壷更衣、彼女を愛した帝は桐壷帝と呼ばれる。

桐壷帝の正妻は弘徽殿女御で、帝の東宮時代からの妃にして、第一子(のちの朱雀帝)の母である。右大臣の娘なので押しが強い。桐壷更衣の父も大納言まで登った人だから、身分が低いというわけでものないのだが、故人ということもあり立場は弱い。

その更衣を桐壷帝が身も世もなく寵愛し、朝に夕に自分の寝殿に呼ぶものだから、他の女性たちの妬みをかい、途中でいろいろ嫌がらせをされたりする。こうした心労からか更衣は病気がちになり、とうとう実家で亡くなってしまう。悲嘆に暮れた日を送る帝が詠んだ歌。

たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく

現代語訳にはたいてい歌の解説が付いている。谷崎潤一郎は「更衣の魂を尋ねに行ってくれる幻術士でもいないものであろうか、彼女の魂のありかが何処であるかを知るために」と注釈を付している。瀬戸内寂聴訳では「あの世まで楊貴妃を探し求めたかの幻術士よ、わたしの前にもあらわれてほしい。あの人の魂魄の行方を探し、その在処を知らせてほしい」、いちばん新しい角田光代さんのものも「亡き桐壷の魂をさがしにいく幻術士はいないものだろうか。そうすれば、人づてにでもそのたましいのありかを知ることができるのに」となっている。

いずれも「まぼろし」を「幻術士」と訳している。ぼくたちが日常使う「幻影」という意味ではなく、あの世とこの世を往来して死者の消息を尋ねることのできる、いわば魔法使いやシャーマンに近い存在だったらしい。

『桐壷』の帖は光源氏の誕生から元服(12歳)までを扱っている。物語は進んで40巻の『幻』では源氏は52歳になっている。現在の年齢では70歳くらいだろうか。その間、40年の歳月が流れたことになる。前年の秋、長年連れ添った紫の上に先立たれ、源氏は季節が進むごとに昔のことを思い出しては悲嘆に暮れている。一周忌(8月14日)が過ぎ、10月になって時雨がちになるころ亡き妻を想って歌を詠んでいる。

大空をかよふまぼろし夢にだに 見えこぬ魂の行く方たづねよ

大空を自在に渡る幻術士よ、夢にさえ現れてくれないあの人の魂はいったいどこへ行ったのか? その行方を捜してわたしに教えておくれ、というほどの意味だろうか。この巻が『幻』と呼ばれるのは、この歌に由来している。

またしても「幻術士」である。桐壷帝が溺愛した更衣の死を悼んで詠んだ、あの「まぼろし」がここで再び出てくる。歌の内容もほとんど同じである。つまり光源氏の生涯を描いた『桐壷』から『幻』までの物語は、最初と最後に同じ歌が置かれていることになる。最愛の人の死ではじまり、最愛の人の死で終わると言ってもいい。そして亡くなった妻への想いを、父も子も大空を渡る「幻術士」に託しているのである。

50年の時を隔てて詠まれた二つの歌、いずれにおいても死は実体化され、空間化されている。そのような死は人を悲嘆に暮れさせる。嘆き悲しむ以外になす術のないものになる。手だてのない死が「まぼろし」に託される。大空を自在に行き来する幻術士よ、あの人の魂の行方を尋ねておくれと。だが、どんな歌を詠んだところで詮なきことに変わりはない。

古代より、人の死は実体化され空間化されてきた。そのことが人生をむなしいものにしている。新しい死のデザインが求められているのだと思う。(作家・片山恭一)

片山恭一の公式サイト、セカチュー・ヴォイスはこちらから

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