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詩人・最果タヒが広げる言葉との出会い。SNS時代に「わからなさ」に息をさせる

伝わる言葉伝える技術 #2 詩の表現
詩人・最果タヒが広げる言葉との出会い。SNS時代に「わからなさ」に息をさせる

撮影:朝岡英輔

― LINE、詩のホテル、展示、インスタレーションなど、本から飛び出した活動を精力的に行っていますが、その理由や背景を教えてください。
 街の中に詩があるようなことが増えたらいいなと長らく思ってきました。ファッション誌に詩を載せてもらうことが増えてから、「美容室で偶然読みました」という方が現れるようになって。
 詩を読んだことはなかったけれど、なんとなく読み始めて「なんだこれは」と思った、わからないのに気になった、というような感想が多く、「不意に詩に出会う」っていいな、と思ったんです。
 詩集を読もうとしたときに、慣れていない方だと、どうしても一つ一つを読解しなければならない、と構えてしまうように思います。わたしとしては、詩は読み手の中に溶け込んで、その人だけの読み方を見つけてもらうものだと思うので、そうやって「作者が持っている正解」を探るように読まなくてもいい、と思っていて…。
 不意に詩に出会えば、その言葉が詩である、ということさえも知らないまま読むことができる。読む人自身がどう思うかだけがその場にあって、それだけのために言葉が存在するように見える。それってとてもいいことだと思いました。

詩のホテル(HOTEL SHE, KYOTO提供)

―公共の場で、自由な解釈が許される言葉に出会うことはめったにないですね。
 今は「どう受け止めたらいいか」がはっきりわかる言葉のほうが、世の中に多くあって、公共の場所だと特に感じます。SNSとかも、共感されること、わかるといわれることが、言葉の存在意義をもたらしているように、錯覚させる。
 だけど、「わかってもらうこと」に言葉の意義を置いていたら、自分自身の言葉もまた、他者が望むものに寄せられて、自分そのものの言葉ではなくなっていくように思うんです。
 詩はその真逆にあって、言葉を前にしたとき、他人がどう思うかは関係なくなります。人によって解釈は異なるし、タイミングによって見え方は変わります。でも、詩の言葉が、「自分の中から出てきた言葉のよう」だと思えたとき、その詩の言葉は読み手だけのものになっていると思うのです。
 そういう言葉が街の中に増えて、不意に出会う瞬間が生まれていくといいなと思います。

詩のホテルの内装(HOTEL SHE, KYOTO提供)

―「伝えるための言葉」とは真逆にある詩がたくさんの人に響いている、という現象に関してどう感じていますか。
 伝わる言葉、というのが、本当に「伝わる」言葉なのか、わたしにはわからないです。中学時代、わかりやすく、共感されるような言葉で、空気を読んで人と話さなくてはならないとき、わたしは本当に苦痛でした。自分というものをデフォルメして、人に切り売りするような感覚があり、むしろ何にも伝わらない感覚になりました。
 わからないことを話している、と思われることが恐怖で、「わかりやすい自分」を演じてはいましたが、それは自分を手放すこと、諦めることです。でも、SNSなどでもやはり、「伝わる」こと「共感される」ことは、とても大切だと思われていて、当時の苦しさをよく思い出します。

人と自分はまったく違う人生を生きていて、すべてをわかってもらうことなんてできないと思っています。相手のことも「わかる」なんて言えない。でも、わからないからこそ話すし、わからないままで語り合うことが、本当の関わりだと思います。
 詩の言葉は、そうした「わからなさ」を、そのままにしていく、そうした部分に息をさせる言葉なんだと思います。気持ちを言葉にすることは、それだけで自分の気持ちを既成の枠に押し込める行為のようにも思います。でも、言葉は、そうした苦しいだけの存在ではないと思う。わかり合えないまま語り合うときに用いられるのも言葉です。
 「わからなさ」に息をさせていくような、そういう詩がわたしも書きたいと思っています。

―他人にも、自分でもよくわかっていない部分を見つめたり、そのまま伝えるのは難しいことでもあります。
 「わかる」方が安心だし、ずっと楽です。でもそれはいろんなことをごまかして切り捨てていかないと難しくて。
 それに誰かに伝わるように話すことを第一に考えていると、だんだん、自分がそれをどう思うか、よりも、他人の反応を軸にしてしまうように感じます。自分のなかを事実や情報が通っていかず、誰かの考えや声に反射的に反応して、それを自分の気持ちだと捉えてしまう。よく知らない人について簡単に行われる誹謗中傷もそうして生まれていているのではと思います。
 他者と、人と人として向き合えなくなっていく。そして他者だけでなく、自分というものさえ蔑ろにしてしまうように思うのです。

編集部より:「わからなさに息をさせる」…自分の気持ちを既成の枠に押し込めた時に、こぼれ落ちてしまう部分をすくい上げ生かすのが「詩の言葉」なのだと感じます

読み手が自分で言葉を見つける

―展示やインスタレーションを行ってみて発見したことは。
 横浜美術館の詩の展示では、詩の言葉のモビールを空間に多数吊るしました。見るタイミングや、立つ場所によって、言葉の組み合わせは変わるし、どれを「いいな」と思うのかはその人自身によって変わっていきます。
 わたしは読書というのは能動的な行いだと思っています。読み手が、自分自身で言葉を見つけていく、その人だけの言葉として読んでいく。この展示はそうした「能動性」が、読み手自身にもはっきり見える形で現れていて、とても興味深かったです。

イムズ(福岡市)での詩のインスタレーション(イムズ提供)

―作品を作る際、掲載する媒体ごとに、配慮されていることはありますか。
 書いてしまった後で、どの媒体の方が向いているか考えることはあります。ただ、あまり自分でも判断基準が分かっているわけではなく、直感で判断してしまっています。
 ネットは様々なテキストが混在しているところなので、不意打ちな言葉の出会いの方が多いと思いますし、よりニュートラルな言葉を使うものの方が多いのかもしれません。
 「詩だと思って読む」のか、「詩だとは思わないまま読む」のかによって、やはり少し変えているかもしれません。

イムズ(福岡市)での詩のインスタレーション(イムズ提供)

―早稲田大学の入試にエッセイが使用され、それに対してSNSで発言されていました。解釈に「正誤がある」ことに対してどのように感じましたか。
 読書の場合は、読み手が、自分自身の思考や感情とともに言葉を読みます。そのときその言葉に対する解釈はその人だけのものとなり、その人の中で一つの作品が完成していきます。読書における読解とはそうしたもので、だから「正しい読解」というものはどこにもないと考えています。
 ただ、国語はそうした「読んで何を考えたか」「作者は何が言いたいのか」を問うものではなく、「何が書かれていて、書かれていないのか」を問うものです。これは読書というより、契約書を正しく読めるか、ということに近いかもしれません。(そしてそういう問いだからこそ、読者という存在が読解に大きく影響を与える文章が、あえて出題されるのだと思います。)
 ですので、読者として「正しい解釈」を求めるのが国語なのではなく、読者という存在を介することなく、書かれているものをただただ「査読」したときに見えるものを問うのが国語だ、という印象です。正誤がありますが、それは「正しい解釈」とは別物だと思います。

「与える」のではなく事実を書く

編集部より:さまざまな作品に挑戦してきた最果さんですが、2020年6月には初の絵本『ここは』を出版しました。絵本を手掛けるのは長年思い描いてきたことだそうです

― 今回絵本を手掛けようとおもったきっかけは。
 もともと絵本がとても好きで、ずっと作りたいと考えていました。絵本における言葉の自由さが好きです。何かをわかりやすく伝えるためではなく、言葉の存在そのものが発見であり、その発見を楽しもうとするのが絵本だと思います。

― 絵本を手掛ける際に難しかったことは。
 絵本をつくりたいとは思ったものの、物語を考えようとするたびに難しさを感じました。
 ファンタジー的なもの、「夢を見せる」ようなことがわたしは本当に苦手で、3年ほどずっと悩んでいました。その間、私は大人から子供に何か面白いものを与える、ということを考えていたのですが、本当は、「与える」じゃだめなんだとある時、ふと気づいたんです。
 わたしは子供時代、ファンタジー的なものがそんなに好きではなかったのだと思います。大人にとっては当たり前だったり、慣れてしまっているものを、一つ一つ発見して、それを面白がっていた。そういうことは、自分が大人になってしまうと忘れてしまいますが、でも、わたしの「子供心」はそこにあって、そこをきっかけに書く必要があるんだと思いました。
 このことは、谷川俊太郎さんが子供向けに書かれた歌詞を読んだときにわかったことでしだ。「本当のことを書けばいいんだ」って急に思ったんです。ファンタジーとかじゃなくて、事実を書けばいいんだ。事実を書けば、詩になる、絵本になる。そう気づいたら、その日のうちにこの原稿が出来上がったんです。

『ここは』最初のページ
編集部より:最果さんが話す通り、『ここは』は事実が素直に描かれ、展開していきます。「ここ」から世界が広がっていくお話になっています。

―デビューから今までを振り返って、「伝え方」が変わってきたとご自身で感じられる部分はありますか。
 わたしは次に書く言葉が予想できない状態が好きで、言葉に書かされているような、そういう意外な展開を書き手として一番言葉に近いところで目撃したいと思っています。わたしは書くことが好きなんです。そうした驚きに夢中でいたいし、それは昔からずっと変わっていないです。
 書くものは自分にとって意外なものであって欲しいし、その意味でも、ずっと、これまでの自分とは違うものを書いていたいなと思います。

―最後に、今後挑戦してみたいこと、興味のあることを教えてください。
 絵本は、ずっと憧れていたもので、出来上がった時本当に感無量でした。読んだ方がお子さんと読んだ時のことなどを教えてくださって、それも本当に嬉しく、自分の喜び方を見て「本当に嬉しいんだなあ」としみじみ改めて思うぐらいです。
絵本はこれからもたくさんたくさん書きたい!と思っています。あと、子供の歌の歌詞も書きたいです。 それから、街に詩があるようなことは、これからもやっていきたいなと思っています。看板でも、歌でも、ファッションでも。詩のような言葉が不意に目に入ってくるようなことが、もっとあればいいなって思っています。


最果タヒ 詩人・小説家
06年現代詩手帖賞受賞。07年、第1詩集『グッドモーニング』で中原中也賞、15年、詩集『死んでしまう系のぼくらに』で現代詩花椿賞を受賞。

『ここは』 最果タヒ 著 及川賢治(100%ORANGE) 絵
若い世代から圧倒的な支持を得ている詩人・最果タヒと及川賢治(100%ORANGE) が、過去・現在・未来の「すべての子どもたちと親たち」へ贈る絵本『ここは』。

昆梓紗
昆梓紗 Kon Azusa デジタルメディア局DX編集部 記者
はじめて街中で「詩の言葉」に出会ったとき、その空間だけ時間の流れが違うように感じ、ドキリとしました。後で最果タヒさんの作品と知り、興味を持ち、今回のインタビューにつながりました。なぜ「ドキリ」としたのか、そのときは分かりませんでしたが、誰かから役割を押し付けられた言葉ではない、私がどんな風に読んでもいい「自由な言葉」に出会ったからだとわかりました。   『ここは』は家で2歳の子どもに読み聞かせています。及川さんの手掛ける絵にもたくさんの仕掛けがあって楽しいです。

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