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【追悼2019】日本の経済発展に尽力した功労者を振り返る

2019年は米中貿易摩擦、英国の欧州連合(EU)離脱(ブレグジット)問題などの海外リスクがくすぶる1年となった。国内では18年に続き、台風19号をはじめとする自然災害が多発した。こうした中、幾多の苦境を乗り越え、日本経済の発展に尽力されてきた経済・産業界の著名人たちが逝去された。ご冥福をお祈りします。(肩書は当時の各社・各団体による。一部、19年初頭に公にされた18年死去者を掲載)

元首相 中曽根康弘さん 戦後政治の総決算

11月29日死去 101歳
 1982年11月から5年間の首相在任中、「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄・電電公社・専売公社の3公社民営化を実現。自身の主張に近い人を私的諮問機関に迎え、トップダウンを進める「大統領型首相」のスタイルを確立した。日米関係の強化でも実績を残し、当時のレーガン大統領とは互いに「ロン・ヤス」と呼び合う親密な関係を築いた。

作家/元経済企画庁長官 堺屋太一(本名:池口小太郎)さん 日本企業の姿を提示

2月8日死去 83歳
 「日本株式会社」の精神的支柱。作家であり、評論家であり、官僚で閣僚でもあった異彩の人。未来展望にたけた堺屋理論は、時代の日本企業のあるべき姿を提示し続けた。「団塊の世代」という言葉の考案者で、柔軟な発想が人口に膾炙(かいしゃ)した。田中角栄元首相のベストセラー『日本列島改造論』(日刊工業新聞社刊)のゴーストライターの1人である。

元三菱化成(現三菱ケミカル)社長/元経団連副会長 古川昌彦さん 化学業界再編の先駆け

11月23日死去 92歳
 1994年、当時国内の総合化学最大手だった三菱化成と、石油化学最大手の三菱油化の合併を主導し、三菱ケミカルの前身である三菱化学を発足。欧米勢に後れを取っていた国内の化学業界再編の先駆けとなった。日経連や経団連の副会長を歴任。経団連では国土・住宅政策委員長として、バブル経済崩壊後の新しい都市づくりに取り組んだ。

セイコーエプソン名誉相談役・元社長 中村恒也さん 世界初、水晶式腕時計を開発

18年12月25日死去 95歳
 第二精工舎(現セイコーインスツル)を経て、同社の疎開先だった諏訪工場(現セイコーエプソン)に転勤。諏訪にいながら腕時計の研究開発に取り組み、世界初の水晶式腕時計「セイコー クオーツアストロン35SQ」や小型電子式プリンターの開発に成功した。他社に先駆けフロン使用脱却に着手し1992年に全廃。フロンレス活動に尽力した。

元マツダ会長・社長 古田徳昌さん 販売5チャンネル化

9月9日死去 91歳
 通商産業省(現経済産業省)で貿易局長などの要職を経て、1985年にマツダに転じ、87年から91年まで社長を務めた。折しもバブル経済まっただ中。89年に整えた国内販売5チャンネル体制のもと「ユーノス・ロードスター」などの名車を送り出した。社員とのコミュニケーションを重んじ、酒脱でオープンな人柄だったという。

元東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)頭取 岸暁さん 金融再編、難局かじ取り

11月15日死去 89歳
 1953年、旧三菱銀行に入行。専務、副頭取を経て、98年頭取に就任した。当時、日本版ビッグバンにより、金融業界は淘汰(とうた)・再編の波が広がり、難しいかじ取りが迫られた。金融安定化法を活用して公的資金を注入。さらに、00年には事業統合により三菱UFJフィナンシャル・グループの前身となる持ち株会社の設立を決めた。

元伊勢丹(現三越伊勢丹)会長・社長 小柴和正さん 幸運引き寄せる経営者

6月21日死去 88歳
 創業家外から初めてのトップに。秀和による株式買い占め問題、提携先の米バーニーズの経営破綻と、逆境にあるほど力をみせた。高島屋進出を端緒とする“新宿百貨店戦争”でも、大手アパレルとの強いきずなで、売り場坪効率を最高にするなど本領を発揮。お得意のゴルフではホールインワンを4回も達成するなど幸運も引き寄せる名経営者だった。

元浜井産業会長・社長 武藤公志さん 工作機械の成長導く

11月22日死去 85歳
 ラップ盤、ホブ盤メーカーの元経営トップ。日本の工作機械産業の成長を促し、製造業の繁栄に貢献するべく、高度成長期から日本工作機械工業会の組織づくり、経営に深く関わった。半世紀以上にわたり日工会の理事を務め、その気力は衰えを知らず、11月に85歳で亡くなった時も現職だった。いわく「業界の発展なくして個社の発展はない」。

元国連難民高等弁務官/元国際協力機構(JICA)理事長 緒方貞子さん 国際協力、けん引

10月22日死去 92歳
 1991年に日本人として初めて国連難民高等弁務官に就任。03年から12年まで国際協力機構(JICA)理事長を務めた。「人間の安全保障」の理念を掲げ、現場に積極的に足を運ぶ「現場主義」を徹底。日本の国際協力を長年けん引し、地位向上に尽力した。

元関西電力副会長・社長/元関西経済同友会代表幹事 森井清二さん 電力で安定供給体制

3月2日死去 92歳
 入社以降、主に工務・系統運用畑を歩み、1985年に社長、91年に副会長に就任し、経営をけん引した。電力流通と、原子力発電所など電源開発の両面で、電力の安定供給体制確立に成果をあげた。親分肌で現場好きだった。政府の委員会や経済団体などで要職も歴任した。

元中国電力会長・社長/元中国経済連合会会長 多田公熙さん 過疎地も目配り忘れず

3月13日死去 95歳
 1989年社長に就任。「エネルギア」という新企業イメージを打ち出した。プロ野球、広島東洋カープの本拠地、マツダスタジアム建設促進会議の座長を務めた。中国経連会長として陰陽を結ぶ幹線道ビジョンをまとめた。過疎地域や高齢者にも目配りを忘れなかった。

元九州電力会長・社長/元九州・山口経済連合会(現九州経済連合会)会長 川合辰雄さん 電源多様化を実現

3月3日死去 102歳
 1940年、九州電力の前身・九州水力電気に入社。社長時代に川内原子力1、2号や天山揚水1号の運転開始など電源多様化を実現した。89年九州・山口経済連合会(現九州経済連合会)会長に。バブル後の経済界を「九州は一つ」の理念で97年までまとめあげた。

五十鈴相談役兼五十鈴グループ会長/創業者 鈴木實さん 鋼板の安定供給貢献

2月22日死去 96歳
 鋼板の加工と販売を両輪とするコイルセンターの基礎をつくった。国内自動車生産が本格化するのに合わせて、関東・中部地区を中心に事業を展開。「必要なものを必要な時に必要な量を届けること」を社是とし、自動車産業などに対する鋼板の安定供給に貢献した。

名古屋トヨペット会長/元日本自動車販売協会連合会会長 小栗七生さん バリューチェーン化

5月22日死去 83歳
 トヨタ自動車系の販売会社、名古屋トヨペットの社長を23年務めた。バブル崩壊後の新車需要低迷時には「中古車やアフターサービスなどのバリューチェーン化を図るべきだ」とし、業界の発展と安定に力を入れた。日本自動車販売協会連合会会長などを歴任した。

マスダック名誉会長・元会長・社長/創業者 増田文彦さん 製菓機械の発展先導

3月11日死去 93歳
 1953年、学生時代の旧友に頼まれ、全自動まんじゅう機を開発。東京・上野の西郷隆盛像前での実演販売は今や伝説だ。57年に新日本機械工業(現マスダック)を創立し、あんパン、どら焼き、サンドパンと次々に自動機を製品化。製パン製菓機械業界の発展を先導した。

元日本物理学会会長 米沢富美子さん 女性科学者の草分け

1月17日死去 80歳
 固体だが原子が不規則に配置された「アモルファス(非晶質)」の研究の第一人者。京都大学大学院修了後、京大助教授や慶応義塾大学教授を歴任。女性で初めて日本物理学会会長を務めるなど、日本の女性科学者の草分け的存在として活躍した。

日刊工業新聞2019年12月26日

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