データに次ぐ第5の科学「サイバーフィジカルループ」の威力
試される学術界の地力
研究に人工知能(AI)技術を取り入れ、戦略的にデータを集めて研究自体を加速させる仕組みが、技術開発を支える競争基盤になりつつある。理論や実験、シミュレーションに続き、「データ科学」が第4の科学として脚光を浴びた。この四つを結び付けて好循環を起こす「サイバーフィジカルループ」が第5の科学として注目される。民間では研究効率が数倍に向上した例が増えてきた。一度ループができるとネックとなるのは研究者による理論構築だ。学術界の地力が試される。(文=小寺貴之)
「少なくとも2倍、体感としては5倍は研究が加速している」とNECシステムプラットフォーム研究所の石田真彦主幹研究員は明かす。新しい原理の熱電変換材料を開発する際に、カギとなったのがNECの異種混合学習技術だ。複数の物理現象が混ざり、実験値がばらついたデータからでも傾向を読み取り、性能予測に成功した。計測値や実験データをAI技術で解析し、次の実験の狙いを定める。これを繰り返すことで研究の試行錯誤を大幅に効率化した。
AIやシミュレーションなどのサイバー空間の技術は、現実世界(フィジカル空間)から集めたデータを科学的に理解する道具として重宝されている。実験で集めたデータをシミュレーションで増幅し、AI技術やデータ科学で次の実験範囲を絞り込む。これを繰り返すことで性能の高い材料や条件が見つかる。
新材料を調べ、その原理が解明されると新しい理論ができる。この理論を基にシミュレーションがより精緻になり、データの確度が上がるという好循環が生まれる。産業技術総合研究所人工知能研究センターの辻井潤一研究センター長は「サイバーとフィジカルをつないで好循環を起こす仕組みは、第5の科学に位置付けられるほどインパクトが大きい」と説明する。産総研の中鉢良治理事長は「これは研究活動そのもの。研究の本質は変わらないが、全体が加速される」と期待する。
NECの異種混合学習では、「木探索」と呼ばれる手法による条件分類と「ベイズ最適化」を用いた線形回帰を組み合わせた。一般に複数の物理現象が混ざった実験データは解釈が難しい。そこで研究者は複数の物理現象が混ざらない実験条件を探して実験を重ねる。NECは木探索で物理現象が変わる条件を複数設定し、ベイズ最適化で強制的に方程式にフィッティングした。この過程で方程式に含まれるパラメーターを百数十個から数個に削減する。残ったパラメーターは材料の性能に影響する因子になる。
石田主幹研究員は「母材の条件によって添加したホウ素が性能を向上させ、マンガンは性能を下げるなど、無数の因子がどう働いているか見えてくる」と説明する。木探索で物理現象が変わる条件を探しているため、従来の定説を組み入れることも、定説を省くこともできる。実際に安価な鉄系熱電材料を発見。熱交換器などの鉄パイプを電源に変える現実味が出てきた。
AI技術はデータ分析のツールとして広がっている。優れた条件や材料が見つかれば、大学なら論文が書け、民間なら新製品開発につなげられる。材料に限らず、製造プロセスやデバイス構造、農作物、医療などへの応用が広がっている。サイバーフィジカルのループ構築で先行するのは学術界よりも産業界だ。新製品開発で先んじられるなら経済合理性が成り立つため、高速で実験や計測を処理する装置群やデータ管理システムへの投資が進む。
ただ優れた条件がわかっても、なぜ良いのかをAIは教えてくれない。原理の解明や理論構築が次のボトルネックになる。産総研人工知能研究センターの麻生英樹副研究センター長は「ネックになるのは人間。研究者の力をどれだけ増幅できるかにかかっている」と指摘する。研究者が新しい原理や理論を作り、次のループに入らないと、既存技術でできることをやり尽くしたら終わりだ。
農業・食品産業技術総合研究機構の久間和生理事長は「農業を理解することとAI技術を使うことをあえて比べるなら、農業の理解の方がはるかに難しい」と説明する。農研機構は農業AI人材を育成する。AI技術を研究するのではなく、AI技術は農業を深掘りするために使う。農作物や家畜など、生物はたんぱく質や核酸などの分子レベルから細胞レベル、組織や臓器レベルまで、極めて複雑な相互作用で生命を維持している。従来の統計解析だけでは生物の内部で何が起きているか解釈が難しかった。
医療でもAI活用が進むが、疾患メカニズムの解明が進むかどうかは未知数だ。それでも久間理事長は「試行錯誤の数は減らせる。農業研究の蓄積を武器に突破口を開きたい」と力を込める。トマトの栽培ではシミュレーションなどを駆使して、収穫量を2・8倍に向上させた。成功のひな型はすでにある。
もちろん課題もある。一つは研究組織の大型化だ。大学などの研究室に、理論や実験、シミュレーション、データ科学の専門家をそろえるのは難しい。物質・材料研究機構の橋本和仁理事長は「すべてできる研究者はいない。人材を探すのに苦労している」と吐露する。共同研究で専門を補い合うことになるため、「組織化よりも、研究者の間の壁を低く下げる工夫が重要だ」と指摘する。
さらにAI技術やデータ科学の情報系研究者の立場からは、材料や農業、医療などの各専門分野の状況がわかりにくい。サイバーフィジカルループの中で理論や実験、シミュレーションなどの、どこがネックになっているのか見えないためだ。状況が整理されれば、若手が融合分野に飛び込んで失敗するリスクを減らせる。情報通信研究機構の徳田英幸理事長は「情報側から学術横断的に指針を与えられれば理想だが、分野によってあまりにも文化が違う」と嘆く。一度、研究そのものを研究して有望領域を絞り込む必要があるかもしれない。
異種混合学習 AIが試行錯誤を効率化
「少なくとも2倍、体感としては5倍は研究が加速している」とNECシステムプラットフォーム研究所の石田真彦主幹研究員は明かす。新しい原理の熱電変換材料を開発する際に、カギとなったのがNECの異種混合学習技術だ。複数の物理現象が混ざり、実験値がばらついたデータからでも傾向を読み取り、性能予測に成功した。計測値や実験データをAI技術で解析し、次の実験の狙いを定める。これを繰り返すことで研究の試行錯誤を大幅に効率化した。
AIやシミュレーションなどのサイバー空間の技術は、現実世界(フィジカル空間)から集めたデータを科学的に理解する道具として重宝されている。実験で集めたデータをシミュレーションで増幅し、AI技術やデータ科学で次の実験範囲を絞り込む。これを繰り返すことで性能の高い材料や条件が見つかる。
新材料を調べ、その原理が解明されると新しい理論ができる。この理論を基にシミュレーションがより精緻になり、データの確度が上がるという好循環が生まれる。産業技術総合研究所人工知能研究センターの辻井潤一研究センター長は「サイバーとフィジカルをつないで好循環を起こす仕組みは、第5の科学に位置付けられるほどインパクトが大きい」と説明する。産総研の中鉢良治理事長は「これは研究活動そのもの。研究の本質は変わらないが、全体が加速される」と期待する。
NECの異種混合学習では、「木探索」と呼ばれる手法による条件分類と「ベイズ最適化」を用いた線形回帰を組み合わせた。一般に複数の物理現象が混ざった実験データは解釈が難しい。そこで研究者は複数の物理現象が混ざらない実験条件を探して実験を重ねる。NECは木探索で物理現象が変わる条件を複数設定し、ベイズ最適化で強制的に方程式にフィッティングした。この過程で方程式に含まれるパラメーターを百数十個から数個に削減する。残ったパラメーターは材料の性能に影響する因子になる。
石田主幹研究員は「母材の条件によって添加したホウ素が性能を向上させ、マンガンは性能を下げるなど、無数の因子がどう働いているか見えてくる」と説明する。木探索で物理現象が変わる条件を探しているため、従来の定説を組み入れることも、定説を省くこともできる。実際に安価な鉄系熱電材料を発見。熱交換器などの鉄パイプを電源に変える現実味が出てきた。
地力問われる 理論構築、人間がネック
AI技術はデータ分析のツールとして広がっている。優れた条件や材料が見つかれば、大学なら論文が書け、民間なら新製品開発につなげられる。材料に限らず、製造プロセスやデバイス構造、農作物、医療などへの応用が広がっている。サイバーフィジカルのループ構築で先行するのは学術界よりも産業界だ。新製品開発で先んじられるなら経済合理性が成り立つため、高速で実験や計測を処理する装置群やデータ管理システムへの投資が進む。
ただ優れた条件がわかっても、なぜ良いのかをAIは教えてくれない。原理の解明や理論構築が次のボトルネックになる。産総研人工知能研究センターの麻生英樹副研究センター長は「ネックになるのは人間。研究者の力をどれだけ増幅できるかにかかっている」と指摘する。研究者が新しい原理や理論を作り、次のループに入らないと、既存技術でできることをやり尽くしたら終わりだ。
農業・食品産業技術総合研究機構の久間和生理事長は「農業を理解することとAI技術を使うことをあえて比べるなら、農業の理解の方がはるかに難しい」と説明する。農研機構は農業AI人材を育成する。AI技術を研究するのではなく、AI技術は農業を深掘りするために使う。農作物や家畜など、生物はたんぱく質や核酸などの分子レベルから細胞レベル、組織や臓器レベルまで、極めて複雑な相互作用で生命を維持している。従来の統計解析だけでは生物の内部で何が起きているか解釈が難しかった。
医療でもAI活用が進むが、疾患メカニズムの解明が進むかどうかは未知数だ。それでも久間理事長は「試行錯誤の数は減らせる。農業研究の蓄積を武器に突破口を開きたい」と力を込める。トマトの栽培ではシミュレーションなどを駆使して、収穫量を2・8倍に向上させた。成功のひな型はすでにある。
もちろん課題もある。一つは研究組織の大型化だ。大学などの研究室に、理論や実験、シミュレーション、データ科学の専門家をそろえるのは難しい。物質・材料研究機構の橋本和仁理事長は「すべてできる研究者はいない。人材を探すのに苦労している」と吐露する。共同研究で専門を補い合うことになるため、「組織化よりも、研究者の間の壁を低く下げる工夫が重要だ」と指摘する。
さらにAI技術やデータ科学の情報系研究者の立場からは、材料や農業、医療などの各専門分野の状況がわかりにくい。サイバーフィジカルループの中で理論や実験、シミュレーションなどの、どこがネックになっているのか見えないためだ。状況が整理されれば、若手が融合分野に飛び込んで失敗するリスクを減らせる。情報通信研究機構の徳田英幸理事長は「情報側から学術横断的に指針を与えられれば理想だが、分野によってあまりにも文化が違う」と嘆く。一度、研究そのものを研究して有望領域を絞り込む必要があるかもしれない。
日刊工業新聞2019年5月17日