デジタルでは足りない、アナログ復権の裏に“不完全”の価値
<情報工場 「読学」のススメ#64>『アナログの逆襲』(デイビッド・サックス 著/加藤 万里子 訳)
私は音楽好きで、ロック・ポップス系ならば洋楽邦楽、時代を問わず幅広く聴くのだが、リスナー歴を振り返ると、「新しいメディア」の導入は割と早い方だったと思う。
CDプレーヤーも、普及し始めの頃に買った記憶がある。初めてCDで曲を聴いた時の衝撃は忘れられない。ぐんぐん迫ってくるような音圧があり、今まで聴こえていなかった楽器の音が識別できる。それまでのオーディオシステムがショボかったのかもしれないが、こんなにも違うとは、思いもよらなかった。
それまでは、アナログレコードやカセットテープで聴いていた。結構な枚数のレコード盤を持っていた気がする。でも、CDプレーヤーを購入してからは、レコードで持っているアルバムもCDで買い直していった。
何より便利だったのは、CDが「ひっくり返さなくていい」ことだ。レコードで音楽を聴いたことがない人には通じないかもしれないが、レコードは、10曲入りのアルバムならば5曲ずつ「A面」と「B面」に分かれており、途中で盤を裏返して、もう一度針を落とさなくてはならなかった。
曲を飛ばしたり、順番を変えたり、シャッフルしたりできるのも感動的だった。それまでは、好きじゃない曲が途中に入っていても、我慢して聴くことが多かった。レコードで曲を飛ばすには、当時持っていたプレーヤーでは、いちいち針を持ち上げて、顔を盤に近づけて溝を探し、そこにもう一度、そっと針を落とさなくてはならなかったからだ。
もっぱらサブスクリプションの音楽配信サービスを利用している今では到底考えられないくらい、アナログレコードは「不便」だった。「アナログレコードへの郷愁」のようなものは、私の中にはかけらもなかった。配信とCDで十分満足していた……『アナログの逆襲』(インターシフト)を読むまでは。
カナダのトロント在住のジャーナリスト、デイビッド・サックス氏による同書では、近年、レコードや紙製のノート、写真フィルム、ボードゲームといったアナログの製品が「復権」している現場を取材。急速なデジタル化の先にある「ポストデジタル時代」のあり方について論じている。
読後、レコードプレーヤーと、イタリアのブランドであるモレスキンのノートブックが、たまらなく欲しくなった。本記事が掲載される頃には、あの「不便な」レコードプレーヤー(昔持っていたものは、引越しの時に捨ててしまっていた)が部屋に鎮座しているかもしれない。
レコードを聴いてみたくなったのは、やはり「聴こえ方の違い」を確かめてみたかったからだ。すっかりデジタルな音に慣れた耳に、アナログレコードのサウンドはどう聴こえ、どんな感情を惹起するのか。
かといって、CDに切り替えた時のように「これからはすべてアナログで聴こう」と思っているわけでもない。その時の気分やTPOによっては、配信やCDで聴くことになるだろう。要は、アナログレコード“も”聴くことで、音楽の聴き方のバリエーションを広げ、より豊かなリスニング生活を実現したいのだ。
近頃の「アナログの復権」の理由も、同様だろう。デジタルに足りないもの、あるいは、デジタルだけでは満足できない要素を、多くの人が意識するようになってきた。だから、それを補うものとしてアナログが求められた。そして、アナログとデジタルを使い分け、時には融合させることによって、生活をより豊かにする――。そんな流れになってきているのだ。
『アナログの逆襲』で興味深かったのは、音楽の制作サイドでも、アナログが見直されていることだ。
今、世界中のポップ・ミュージックの制作現場では、プロ・アマ問わず、あまねく「プロ・ツールス」という音楽編集ソフトウェアが使われている。これを使えば、PC上で曲の一部を切ったり貼ったりできる。また、プラグインにより、ボーカルの音程を正したり、複雑なエフェクト(音響効果)をかけたりといったことも、いとも簡単にできる。レコーディングで、以前ならばミスで「録り直し」になったケースも、1クリックで処理できたりもする。
しかし、最近になって米国では、昔ながらのアナログレコーディングができるスタジオに、ミュージシャンが殺到する現象が見られるという。アナログならではの音質を求めてのことだが、もう一つ理由があるそうだ。それは、プロ・ツールスでは「作業が終わらない」というものだ。
つまり、プロ・ツールスは「何でも簡単にできる」がゆえに、「完璧な仕事」を目指そうとすると、ああでもない、こうでもないと、何度でもやり直してしまう。しかし、アナログならば、録り直しには手間とコストがかかるため、多少のアラがあっても、それを「味」として残し、OKとする。どうしても気に入らない時のみ、録り直しをする。
幾多の伝説的なレコーディングに立ち会ったエンジニア、ケン・スコットの述懐が、こうしたアナログの「不完全の価値」を如実に物語っている。デヴィッド・ボウイの不滅の名曲『ジギー・スターダスト』のレコーディング時のエピソードだ。ボウイは、曲のエンディング近くに、涙を流しながら感情を込めて歌い上げた。
その時のテイクは採用され、今も聴くことができる。だが、もし当時プロ・ツールスが存在し、その扱いに慣れたエンジニアが担当していたら、どうなっていただろう。おそらくその時のボウイの声の震えは、曲を「不完全」なものにするエラーとして、さっと1クリックで修正されただろう。
ボウイの録音のように、不完全なもの、無駄なものを排除せずに残す決断が大事なのだ。それが、優れた創造につながる。制約があるからこそ、そうした決断をせざるを得ない。これこそが、アナログの「不完全の価値」だ。
音楽を聴くときも、簡単に曲を飛ばせるCDや、延々と聴き続けられる配信だと、どうしても「聴き流す」ことになりがちだ。ところが、制約のあるアナログレコードならば、じっくり聴く姿勢になりやすい。集中して聴くことで、曲の新たな魅力、これまでとは違う感じ方を発見できるかもしれない。
しかし、よく考えれば、「不完全の価値」はデジタルでも引き出すことができる。プロ・ツールスの便利な機能をあえて使わなかったり、配信やCDを、曲を飛ばさずにじっくり聴いたりすればいいだけだ。
つまり、デジタルなツールを、アナログのマインドで使えばいいのだ。これこそ、もっとも簡単にできる「デジタルとアナログの融合」に他ならない。
『アナログの逆襲』に取り上げられたさまざまな事例を参考に、身の周りにあるアナログにどんな価値があるのか、立ち止まって考えてみてはどうだろうか。
(文=情報工場「SERENDIP」編集部)
『アナログの逆襲』
-「ポストデジタル経済」へ、ビジネスや発想はこう変わる
デイビッド・サックス 著
加藤 万里子 訳
インターシフト
400p 2,100円(税別)>
CDプレーヤーも、普及し始めの頃に買った記憶がある。初めてCDで曲を聴いた時の衝撃は忘れられない。ぐんぐん迫ってくるような音圧があり、今まで聴こえていなかった楽器の音が識別できる。それまでのオーディオシステムがショボかったのかもしれないが、こんなにも違うとは、思いもよらなかった。
それまでは、アナログレコードやカセットテープで聴いていた。結構な枚数のレコード盤を持っていた気がする。でも、CDプレーヤーを購入してからは、レコードで持っているアルバムもCDで買い直していった。
何より便利だったのは、CDが「ひっくり返さなくていい」ことだ。レコードで音楽を聴いたことがない人には通じないかもしれないが、レコードは、10曲入りのアルバムならば5曲ずつ「A面」と「B面」に分かれており、途中で盤を裏返して、もう一度針を落とさなくてはならなかった。
曲を飛ばしたり、順番を変えたり、シャッフルしたりできるのも感動的だった。それまでは、好きじゃない曲が途中に入っていても、我慢して聴くことが多かった。レコードで曲を飛ばすには、当時持っていたプレーヤーでは、いちいち針を持ち上げて、顔を盤に近づけて溝を探し、そこにもう一度、そっと針を落とさなくてはならなかったからだ。
もっぱらサブスクリプションの音楽配信サービスを利用している今では到底考えられないくらい、アナログレコードは「不便」だった。「アナログレコードへの郷愁」のようなものは、私の中にはかけらもなかった。配信とCDで十分満足していた……『アナログの逆襲』(インターシフト)を読むまでは。
カナダのトロント在住のジャーナリスト、デイビッド・サックス氏による同書では、近年、レコードや紙製のノート、写真フィルム、ボードゲームといったアナログの製品が「復権」している現場を取材。急速なデジタル化の先にある「ポストデジタル時代」のあり方について論じている。
読後、レコードプレーヤーと、イタリアのブランドであるモレスキンのノートブックが、たまらなく欲しくなった。本記事が掲載される頃には、あの「不便な」レコードプレーヤー(昔持っていたものは、引越しの時に捨ててしまっていた)が部屋に鎮座しているかもしれない。
レコードを聴いてみたくなったのは、やはり「聴こえ方の違い」を確かめてみたかったからだ。すっかりデジタルな音に慣れた耳に、アナログレコードのサウンドはどう聴こえ、どんな感情を惹起するのか。
かといって、CDに切り替えた時のように「これからはすべてアナログで聴こう」と思っているわけでもない。その時の気分やTPOによっては、配信やCDで聴くことになるだろう。要は、アナログレコード“も”聴くことで、音楽の聴き方のバリエーションを広げ、より豊かなリスニング生活を実現したいのだ。
近頃の「アナログの復権」の理由も、同様だろう。デジタルに足りないもの、あるいは、デジタルだけでは満足できない要素を、多くの人が意識するようになってきた。だから、それを補うものとしてアナログが求められた。そして、アナログとデジタルを使い分け、時には融合させることによって、生活をより豊かにする――。そんな流れになってきているのだ。
デビッド・ボウイの声の震えが修正されなかった理由とは
『アナログの逆襲』で興味深かったのは、音楽の制作サイドでも、アナログが見直されていることだ。
今、世界中のポップ・ミュージックの制作現場では、プロ・アマ問わず、あまねく「プロ・ツールス」という音楽編集ソフトウェアが使われている。これを使えば、PC上で曲の一部を切ったり貼ったりできる。また、プラグインにより、ボーカルの音程を正したり、複雑なエフェクト(音響効果)をかけたりといったことも、いとも簡単にできる。レコーディングで、以前ならばミスで「録り直し」になったケースも、1クリックで処理できたりもする。
しかし、最近になって米国では、昔ながらのアナログレコーディングができるスタジオに、ミュージシャンが殺到する現象が見られるという。アナログならではの音質を求めてのことだが、もう一つ理由があるそうだ。それは、プロ・ツールスでは「作業が終わらない」というものだ。
つまり、プロ・ツールスは「何でも簡単にできる」がゆえに、「完璧な仕事」を目指そうとすると、ああでもない、こうでもないと、何度でもやり直してしまう。しかし、アナログならば、録り直しには手間とコストがかかるため、多少のアラがあっても、それを「味」として残し、OKとする。どうしても気に入らない時のみ、録り直しをする。
幾多の伝説的なレコーディングに立ち会ったエンジニア、ケン・スコットの述懐が、こうしたアナログの「不完全の価値」を如実に物語っている。デヴィッド・ボウイの不滅の名曲『ジギー・スターダスト』のレコーディング時のエピソードだ。ボウイは、曲のエンディング近くに、涙を流しながら感情を込めて歌い上げた。
その時のテイクは採用され、今も聴くことができる。だが、もし当時プロ・ツールスが存在し、その扱いに慣れたエンジニアが担当していたら、どうなっていただろう。おそらくその時のボウイの声の震えは、曲を「不完全」なものにするエラーとして、さっと1クリックで修正されただろう。
ボウイの録音のように、不完全なもの、無駄なものを排除せずに残す決断が大事なのだ。それが、優れた創造につながる。制約があるからこそ、そうした決断をせざるを得ない。これこそが、アナログの「不完全の価値」だ。
音楽を聴くときも、簡単に曲を飛ばせるCDや、延々と聴き続けられる配信だと、どうしても「聴き流す」ことになりがちだ。ところが、制約のあるアナログレコードならば、じっくり聴く姿勢になりやすい。集中して聴くことで、曲の新たな魅力、これまでとは違う感じ方を発見できるかもしれない。
しかし、よく考えれば、「不完全の価値」はデジタルでも引き出すことができる。プロ・ツールスの便利な機能をあえて使わなかったり、配信やCDを、曲を飛ばさずにじっくり聴いたりすればいいだけだ。
つまり、デジタルなツールを、アナログのマインドで使えばいいのだ。これこそ、もっとも簡単にできる「デジタルとアナログの融合」に他ならない。
『アナログの逆襲』に取り上げられたさまざまな事例を参考に、身の周りにあるアナログにどんな価値があるのか、立ち止まって考えてみてはどうだろうか。
(文=情報工場「SERENDIP」編集部)
-「ポストデジタル経済」へ、ビジネスや発想はこう変わる
デイビッド・サックス 著
加藤 万里子 訳
インターシフト
400p 2,100円(税別)>
情報工場 「読学」のススメ#64