国連への寄付が2倍に、「VR」が生み出す共感力の威力

<情報工場 「読学」のススメ#60>『VRは脳をどう変えるか?』(ジェレミー・ベイレンソン 著/倉田 幸信 訳)

長時間VRを経験すると現実と非現実が分からなくなる


 十数年前になるが、一度だけテレビの生放送番組に出演したことがある。全国放送の50分間のワイドショーで、当時担当していた専門誌の編集長としてゲストコメンテーターを務めたのだ。

 なにぶん初めての経験だ。放送開始直前までガチガチに緊張し、足が震えていた。だが、5秒前からのカウントダウンの時に、胸のあたりから熱いものが一気に頭のてっぺんまで上り、次の瞬間、すっと楽になった。本番では割と落ち着いてコメントやトークができた。人生初にしては上出来だ。

 放送が無事終わり、軽い疲労感を覚えながらスタジオの外に出ると、不思議な感覚に襲われた。見慣れたはずの渋谷の街並みが、現実でないように感じられたのだ。おそらく、慣れない環境での極度の集中と、視覚や聴覚に強烈な刺激を受けたことで、脳が混乱したのだろう。

 『VRは脳をどう変えるか?』(文藝春秋)に、これと似た感覚を得たエピソードが紹介されている。VR(バーチャルリアリティ:仮想現実)空間に長時間滞在した際の感覚として、奇妙な非現実感が報告されているのだ。

 同書は、VRが社会や人間をどのように変えるのか、プラスマイナス両面から実証的に論じている。著者のスタンフォード大学ジェレミー・ベイレンソン教授は、VR研究の第一人者だ。20年にわたり認知心理学の観点からVRを研究しており、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOがVR機器メーカーのオキュラスを買収する直前に、同教授の研究室を訪れたという。

 同書で触れられているVRの長時間使用者は二人。一人はハンブルク大学のドイツ人心理学者で、自ら徹底的な監視体制のもと24時間VRルームで過ごすという実験を行った。その結果、「自分が仮想環境にいるのか現実世界にいるのか混乱をきたし」たなどと報告している。

 もう一人は、仮想世界で過ごした世界最長記録を持つデレク・ウェスターマンというユーチューバー。彼は25時間の仮想体験の後「わずかながら、すべての物事が上っ面だけのように、または非現実的に感じられ」たという。

 VRは、ダンボール製の簡易ゴーグルによる体験でさえ、視覚と聴覚に強烈な刺激を与え、現実を仮想世界に置き換える。より高度なVRになると、モーショントラッキング(動作追跡)の仕組みにより、使用者の動きに連動して仮想世界も変化する。

 ベイレンソン教授によれば、VRの強烈な感覚は「メディア経験」ではなく「経験」と見なせる。「メディアで視聴したことがある」ではなく「実際に経験した」として脳が記憶することがあるということだ。

 ベイレンソン教授のラボが行った幼稚園から小学校低学年までの子どもを対象にした実験では、VRを経験した多くの子どもに「ニセモノの記憶」が作られることがわかった。

 現状、多くのVR機器のメーカーが製品に年齢制限を設け、使用上の注意を明記しているそうだ。だが、成人も対象にした、何らかの統一ガイドラインは必要だろう。

「現実」をより豊かにすることで感覚を拡張し、進化させるVR


 VRには、脳への影響などのデメリットを凌駕するメリットがある。最大のメリットは、「共感力」の醸成ではないだろうか。

 『VRは脳をどう変えるか?』では、『シドラの上にかかる雲』というVRドキュメンタリー映画が取り上げられている。ヨルダン北部のザータリ難民キャンプを舞台にした作品だ。

 この映画では、VR機器を装着した観客を、難民キャンプに連れていく。起承転結のストーリーがあるわけではない。音楽もかからない。観客は、ただキャンプの何気ない日常に立ち会う。その場にいる難民の一人であるかのように、人々の表情や会話、行動を見聞きする。

 この映画の没入感が、観客の心を揺さぶるのだ。他者の経験を共有し、難民キャンプの人々と同じ視点や視界、聴覚を得ることで、難民たちの生活が「自分ごと」として脳に刻み込まれるのだろう。そこに深い「共感」が生まれる。

 この映画は国連でも上映されている。国連の内部データによれば、こうしたVRを体験した人は、そうでない人の2倍の率で寄付をするのだという。

 VRは現実をデジタルな仮想空間に置き換えるが、「感覚」を置き換えるのではない。感覚を「拡張」するのだ。もっと言えば、感覚を「進化」させる。

 VRでは極めて現実に近い経験ができるため、「想像力が衰えるのでは」と危惧する人もいるだろう。だが、むしろVRは想像力を高める。

 通常、私たちは日々経験する「現実」を土台にして、想像力を働かせる。VRを使うと、その土台が、より豊かな「現実」になる。そうすれば、想像力が発揮される範囲も広がる。

 共感力も同じだ。『シドラの上にかかる雲』は、観客の現実に、難民キャンプの現実を加える。そのより豊かになった現実を土台に、共感力はグレードアップする。

 今後は、VRのテクノロジーだけでなく、「正しく、効果的な」使い方も研究されていくだろう。どちらの「進化」も楽しみだ。
 

(文=情報工場「SERENDIP」編集部)

『VRは脳をどう変えるか?』
-仮想現実の心理学
ジェレミー・ベイレンソン 著
倉田 幸信 訳
文藝春秋
368p 2,200円(税別)

ニュースイッチオリジナル

高橋 北斗

高橋 北斗
10月20日
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VRは感覚を進化させ、脳内に「ニセモノの記憶」を作りあげるほどの力を持っている。その力は、難民キャンプのVRドキュメンタリーを国連で体験させるような正しい善意の方向にも、長時間使用させることで拷問やマインドコントロールなど悪意の方向にも使える。進化した「感覚」をいかに「正しく、効果的に」引き出すか。そのような倫理的、法的な観点での検討が、今後重要になってくるだろう。

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