私たちの「鼻」のポテンシャルを見直してみませんか?

<情報工場 「読学」のススメ#63>『犬であるとはどういうことか』(アレクサンドラ・ホロウィッツ 著/竹内 和世 訳)

猫は舌、犬は鼻で世界と対峙するのか


 我が家の飼い猫は、よく舐める。自分の体もしょっちゅう舐めているのだが、飼い主である私が頭を撫でようと手を出すと、すかさずペロリ。抱き上げて顔を近づければ、目の前に舌が出てくる。朝、寝ている私の手を舐めて起こすことも。

 猫に舐める習性があるのは確からしい。自分の体を舐めるのは、綺麗好きだから。ストレスや病気のサインという説もある。飼い主の手や顔を舐めるのは親愛の情の表明とも、コミュニケーションとも言われる。ご飯がほしいなどの要求を、舐めて知らせるのだ。

 猫は飼い主を、人間ではなく「でかい猫」だと思っているという説もある。舐める、尻尾を立てる、脚にまとわりつく、といった猫同士がする行動を、人間である飼い主に対してもするからだという。

 いずれにせよ、猫に聞いてみなければ、その行動が何を意味しているかなんて、わかりっこない。ただ、やたらと舐めまくる家の猫を眺めていると、こいつらは味覚か舌の触覚を通して世界と対峙しているのではないかと、ふと思ったりもする。

 猫が舌で世界を捉えるというのは眉唾だが、犬が鼻で、つまり嗅覚を通して環境に適応しているのは真実に近いようだ。『犬であるとはどういうことか』(白揚社)を読めば、それがよくわかる。同書は、犬が持つ優れた嗅覚に注目し、匂いで世界を知るとはどういうことかを、著者自らが犬のように「嗅ぎ回る」などして、体験的に知ろうとした記録だ。

 著者のアレクサンドラ・ホロウィッツさんは、コロンビア大学バーナード・カレッジで教鞭をとる、犬の認知行動の権威として知られる学者。自らも2匹の雑種犬を飼っているそうだ。

 犬の鼻は、よく見ると、思いのほか大きい。犬種にもよるが、おおむね顔の前に突き出している。それによって彼らは地面を嗅ぐことが容易になっている。地面は匂いの宝庫だ。そこを通った人間や動物・虫、そこから生えた植物の匂い、地面から放出される匂いといった、無数の匂いが集まっているのだ。散歩コースが毎日同じでも、犬にとっては日々異なる「匂いの風景(スメルスケープ)」があり、新鮮なのだ。

 犬と犬が出会うと、お互いを嗅ぐ。匂いでさまざまな情報が得られるのだという。雌雄や最近病気したかどうか、さっき食べたばかりなのか、そしておそらく幸せかどうか、怖がっていないかなどの感情も伝えあっている。飼い主の匂いも、もちろん犬は把握している。

 ホロウィッツさんによれば、室内飼いの犬がご主人様が帰る時間を把握し、きちんと玄関先で待っていたりする理由も、匂いで説明できるという。あれは予知能力でも体内時計でもないそうだ。

 つまり、飼い主が出かけた直後は、まだ「ご主人様の匂い」が部屋いっぱいに残っている。だが時間が経つにつれ、匂いは薄れる。毎日だいたい同じ時間に帰宅するのならば、ちょうど帰る頃の部屋の匂いの薄まり具合を、犬は分かっている。それで、「お、このくらいの匂いの残り方なら、もう帰ってくるな」と察し、いそいそと玄関に迎えにいくのだ。

五感の中でもっともデジタル化、バーチャル化が難しい嗅覚


 検知犬や探索犬として活躍できるほど、犬の嗅覚が鋭いのは、一つには鼻の構造が複雑だからだ。しかし、それ以上に犬が意識して「嗅いでいる」ことが大きいのだという。人間は、あまり嗅がない。匂いの専門職でもない限り嗅ぐ必要がないし、嗅ぐ習慣もない。嗅ぐ機会が少ないために、嗅覚が衰えている。

 犬は、対象に鼻を近づけ、スニッフ(嗅ぎ入れること)をする。くんくんと、小刻みに鼻を動かす。毎秒5回から12回ほどだ。

 実は、最近解読された人間のゲノムのうち約1%が鼻の嗅覚レセプター(受容体)にあてられているそうだ。だが、日々の生活で嗅覚を活用する時間は、全体の1%よりかなり少ないはずだ。せっかく遺伝の青写真に用意された人間の嗅覚が「宝の持ち腐れ」になっているのかもしれない。

 そう考えたホロウィッツさんは「練習」することにした。犬と同じように地面に鼻をつけ、いろいろなところに鼻を突っ込み、スニッフして回る。膨大な種類の匂いを嗅ぎ分ける実験にも参加した。同時に、麻薬の検知犬など仕事犬の訓練を見学し、訓練士から話を聞いた。

 数年間そのように嗅覚を意識しながら生活した結果、ホロウィッツさんは、常人より「匂いがわかる人」になったそうだ。マンションのエレベーターに残った匂いから、乗っていた人の持ち物がわかったり、朝、家族が起きているかどうかを匂いで判断できるようになった。

 記憶から鼻に「匂い」を呼び戻せるようにも。父親の机の写真を見ると、机の内側の樹脂、鉛筆の削りカス、手巻きタバコの匂いが混じり合って自分の鼻にやってくるのだ。嗅覚を鍛えることで、知覚の次元が広げられた。

 さて、人間の五感の中で、もっともデジタル化が難しいのが嗅覚だと言われる。犬が嗅覚で世界を知るのと同じように、人間は主に視覚を中心に外部を捉えている。そのためか、視覚や聴覚のデジタル化はかなり進んでいる。VR(仮想現実)にしても、視覚と聴覚を拡張するだけで、バーチャル空間をかなりリアルに感じさせられる。

 匂いは、形成する分子の種類が無数にあり、それら複雑に組み合わせて意味のある情報にしている。それゆえ正確に再現するのが困難なのだ。検知犬や探索犬のニーズは減りそうにない。

 視覚に対する映像や画像、聴覚に対する音楽や効果音とは違い、バーチャルな「匂い」を作り出すのは難しい。ということは、匂いは常に「真実」なのではないか。確かに匂いは、ごまかすことはできても「偽物の匂い」を嗅がせたりするのは簡単ではない。匂いは嘘をつかないのだ。

 AIやロボットにはなく、人間(を含む動物)のみに唯一残される可能性があり、真実につながる「嗅覚」。普段から、少しでも意識して「嗅いでみる」ことで、思いがけない発想が得られるのではないだろうか。
(文=情報工場「SERENDIP」編集部)

                   

『犬であるとはどういうことか』
-その鼻が教える匂いの世界
アレクサンドラ・ホロウィッツ 著
竹内 和世 訳
白揚社
350p 2,500円(税別)

情報工場 「読学」のススメ#63

高橋 北斗

高橋 北斗
01月20日
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嗅覚は視覚や聴覚に比べて、人間の脳に伝わる情報量が少なく、頼りないと思うかもしれない。しかし嗅覚には、匂いを知らぬ間に記憶に定着させ、感情や感性と分かち難く結びつける性質があるという。夏の夜の湿った匂いや、正月の朝の晴れやかで澄み切った空気など、嗅いだ瞬間、何とも言われぬ気持ちになり、様々な記憶を呼び起こされることはよくある。意識的に匂いを嗅いで、記憶の底に眠っていた感覚を呼び戻すことで、イノベーションのヒントが得られるかもしれない。

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