三菱重工、10年かけた組織改革の集大成へ。縦割り打破は可能?
グローバル・グループ経営に移行
三菱重工業が2019年からグローバル・グループ経営に移行する。事業所・事業本部制の解体を皮切りに、10年近く進めてきた組織改革の集大成だ。社長就任6年目となる宮永俊一社長とともに、グループ戦略を最終的に取りまとめたのが最高戦略責任者(CSO)の泉沢清次取締役常務執行役員。両者の取材を通じ、三菱重工の今後の持続成長の道筋を探る。
08年3月から18年3月までに三菱重工のグループ従業員は6万4000人から8万700人に膨らみ、海外人員比率は12・5%から34・7%に拡大した。独シーメンスとの製鉄プラント事業統合、三菱日立パワーシステムズ(MHPS)の設立をはじめ、積極化したM&A(合併・買収)の効果は大きい。
グローバル・グループ経営では、健全化された財務基盤を維持しつつ、事業で生み出したキャッシュを次の成長投資に振り向け、SBU(事業単位)の自律性を広げる一方、グループ本社が大きな求心力を持つ体制を築く。結果として「専業メーカーに負けない柔軟性とスピード感を身につける」(泉沢CSO)狙いだ。
【難しい登山】
ここに至るまでの約10年、三菱重工の組織改革は巨大な山を登ってきた。かつての三菱重工は「14種類の給料袋がある」と揶揄(やゆ)されるほど事業所権限が強かった。縦割りばかりが目立ち、自前主義と個別最適がグローバル化の遅れを招いた。成長の隘路(あいろ)は組織に内在し、いつまでたっても売上高3兆円の壁を越えられなかった。
事業所解体プロジェクトは登頂が難しい世界有数の険しい山をもじって「K2」と名付けられた。
【大きな一歩】
大きな一歩を踏み出したのが08年。大宮英明会長(当時社長)の号令の下で動きだした「戦略的事業評価制度」だ。SBUの収益性/財務健全性を割り出し、ポジション別に投下資本を配分するもので、700もの製品群が“見える化”され、ポートフォリオ改革の道を切り開いた。
13年には九つの事業本部を「エネルギー・環境」「交通・輸送」「防衛・宇宙」「機械・設備システム」の4ドメインとし、さらに現在の3ドメイン体制に集約。この時点で次の成長に向けた組織改革をほぼ終えた。
「長い歴史を持つコングロマリットはどうしても若干保守的で安定的な経営に陥りがちだった」と宮永社長が振り返るように、かつては安定志向の企業風土が染みついており、従業員は「かなり均質的な集団で、同じような価値観を持ち、居心地が良かった」(泉沢CSO)。
構造改革が加速したこの10年、客船建造での巨額損失をはじめ業績の山谷は大きかった。不安や違和感を覚えた従業員も少なくない。だが「違和感のないところにイノベーションは生まれない。乗り越えなければならないし、乗り越えられるはずだ」と泉沢CSOは断言する。宮永社長も「やっと前向きな話が若い人の間ででてきた」と手応えを感じる。
19年1月、三菱重工は16年ぶりに本社機能を東京・丸の内に移転し、グローバル・グループ経営に踏み出すが、焦点はMHPSを中心とするエネルギー事業の再建だ。これまでの三菱重工の成長を支えてきた火力発電事業は、再生可能エネルギーの普及で受注に急ブレーキがかかっており「生産能力が過剰になる」(宮永社長)。
ライバルの米ゼネラル・エレクトリック(GE)や独シーメンスが足早に構造改革を進める中、三菱重工も火力事業を「抜本的対策が必要(事業構造転換)」と位置付けた。だが、泉沢CSOは「エネルギー・環境分野は三菱重工の幹であり存在意義」と言い切る。
【柔軟に変化】
期待を寄せるのが再エネのバックアップ電源用ガスタービンだ。太陽光や風力などの不安定な電力を補完するにはピーク電源の確保が不可欠。10日にMHPSが米国中西部の電力会社から受注を発表した出力27万5000キロワット急速起動ガスタービンは業界の話題をさらった。従来30分かかった起動時間を10分に短縮するとともに、毎分5万キロワットの負荷変化率を実現。急速起動大型ガスタービンの開発でGE、シーメンスの機先を制した。
20年半ばの納入を目指す「MRJ」事業を含め、次の成長に向けた霧が晴れたわけではない。「戦略に応じて組織は変わらねばならない。思考停止に陥ることが最も悪い」と泉沢CSO。改革の成果に関心が集まる。
グローバル・グループ経営の仕上げを任された泉沢CSOとはどのような人物なのか。表舞台に出ることは少なかったが、実は三菱重工の組織改革を肌感覚で知っている。
81年に三菱重工に入社し、若手時代に国際宇宙ステーション(ISS)の日本実験棟「きぼう」の計画立ち上げに参画。その後はほぼ一貫して技術本部、技術統括本部の企画畑を歩み、研究所の予算や組織をマネジメントした。そこで青木素直元副社長による組織改革を目の当たりにしている。
三菱重工は64年の3重工合併以来、横浜、名古屋、高砂、広島、長崎の5地区に研究所を配置。かつては工場の下請け的存在となっていた。見かねた青木氏は研究所の実質統合に動いた。「今日からはミックスジュース、ワン技本だ」とのかけ声は今も語り草だ。組織の垣根をなくし、管理職の流動性や研究開発費の最適配分を実現。イノベーションの孵化(ふか)器となり、その役割を大きく変えた。
【次々に成功】
技術統括本部という小さな組織だからこそ、早期に縦割りを打破できたのは事実だが、その後の全社組織改革に先鞭(せんべん)をつけたと見ても良い。泉沢CSOは「僕らみたいに運営側にいる人間からすると、(一体運営が)本当にうまく回るのかと疑問視していた。だけどやってみると次々に成功する。限界を作っていたのは自分だった」と振り返る。
転機は再び訪れる。13年、軽自動車エンジンのオイル漏れ不具合で混乱していた三菱自動車の常務執行役員品質統括部門長として送り込まれる。開発や営業に直言し、元気をなくしていた品質部門に自信を与えた。益子修会長兼最高経営責任者(CEO)の薫陶を受け、仕事との向き合い方など多くを学んだ。
今後について「いろいろな所から突然イノベーションが起こり、方向感がはっきりしない難しい時代。幹部層の責任は大きくなる」と気を引き締める。
(文=編集委員・鈴木真央)
求心力強化 柔軟性・スピード感体得
08年3月から18年3月までに三菱重工のグループ従業員は6万4000人から8万700人に膨らみ、海外人員比率は12・5%から34・7%に拡大した。独シーメンスとの製鉄プラント事業統合、三菱日立パワーシステムズ(MHPS)の設立をはじめ、積極化したM&A(合併・買収)の効果は大きい。
グローバル・グループ経営では、健全化された財務基盤を維持しつつ、事業で生み出したキャッシュを次の成長投資に振り向け、SBU(事業単位)の自律性を広げる一方、グループ本社が大きな求心力を持つ体制を築く。結果として「専業メーカーに負けない柔軟性とスピード感を身につける」(泉沢CSO)狙いだ。
【難しい登山】
ここに至るまでの約10年、三菱重工の組織改革は巨大な山を登ってきた。かつての三菱重工は「14種類の給料袋がある」と揶揄(やゆ)されるほど事業所権限が強かった。縦割りばかりが目立ち、自前主義と個別最適がグローバル化の遅れを招いた。成長の隘路(あいろ)は組織に内在し、いつまでたっても売上高3兆円の壁を越えられなかった。
事業所解体プロジェクトは登頂が難しい世界有数の険しい山をもじって「K2」と名付けられた。
【大きな一歩】
大きな一歩を踏み出したのが08年。大宮英明会長(当時社長)の号令の下で動きだした「戦略的事業評価制度」だ。SBUの収益性/財務健全性を割り出し、ポジション別に投下資本を配分するもので、700もの製品群が“見える化”され、ポートフォリオ改革の道を切り開いた。
13年には九つの事業本部を「エネルギー・環境」「交通・輸送」「防衛・宇宙」「機械・設備システム」の4ドメインとし、さらに現在の3ドメイン体制に集約。この時点で次の成長に向けた組織改革をほぼ終えた。
「長い歴史を持つコングロマリットはどうしても若干保守的で安定的な経営に陥りがちだった」と宮永社長が振り返るように、かつては安定志向の企業風土が染みついており、従業員は「かなり均質的な集団で、同じような価値観を持ち、居心地が良かった」(泉沢CSO)。
構造改革が加速したこの10年、客船建造での巨額損失をはじめ業績の山谷は大きかった。不安や違和感を覚えた従業員も少なくない。だが「違和感のないところにイノベーションは生まれない。乗り越えなければならないし、乗り越えられるはずだ」と泉沢CSOは断言する。宮永社長も「やっと前向きな話が若い人の間ででてきた」と手応えを感じる。
抜本的対策が急務 火力事業再建が焦点
19年1月、三菱重工は16年ぶりに本社機能を東京・丸の内に移転し、グローバル・グループ経営に踏み出すが、焦点はMHPSを中心とするエネルギー事業の再建だ。これまでの三菱重工の成長を支えてきた火力発電事業は、再生可能エネルギーの普及で受注に急ブレーキがかかっており「生産能力が過剰になる」(宮永社長)。
ライバルの米ゼネラル・エレクトリック(GE)や独シーメンスが足早に構造改革を進める中、三菱重工も火力事業を「抜本的対策が必要(事業構造転換)」と位置付けた。だが、泉沢CSOは「エネルギー・環境分野は三菱重工の幹であり存在意義」と言い切る。
【柔軟に変化】
期待を寄せるのが再エネのバックアップ電源用ガスタービンだ。太陽光や風力などの不安定な電力を補完するにはピーク電源の確保が不可欠。10日にMHPSが米国中西部の電力会社から受注を発表した出力27万5000キロワット急速起動ガスタービンは業界の話題をさらった。従来30分かかった起動時間を10分に短縮するとともに、毎分5万キロワットの負荷変化率を実現。急速起動大型ガスタービンの開発でGE、シーメンスの機先を制した。
20年半ばの納入を目指す「MRJ」事業を含め、次の成長に向けた霧が晴れたわけではない。「戦略に応じて組織は変わらねばならない。思考停止に陥ることが最も悪い」と泉沢CSO。改革の成果に関心が集まる。
早期に縦割り打破 「改革」肌感覚で知る
グローバル・グループ経営の仕上げを任された泉沢CSOとはどのような人物なのか。表舞台に出ることは少なかったが、実は三菱重工の組織改革を肌感覚で知っている。
81年に三菱重工に入社し、若手時代に国際宇宙ステーション(ISS)の日本実験棟「きぼう」の計画立ち上げに参画。その後はほぼ一貫して技術本部、技術統括本部の企画畑を歩み、研究所の予算や組織をマネジメントした。そこで青木素直元副社長による組織改革を目の当たりにしている。
三菱重工は64年の3重工合併以来、横浜、名古屋、高砂、広島、長崎の5地区に研究所を配置。かつては工場の下請け的存在となっていた。見かねた青木氏は研究所の実質統合に動いた。「今日からはミックスジュース、ワン技本だ」とのかけ声は今も語り草だ。組織の垣根をなくし、管理職の流動性や研究開発費の最適配分を実現。イノベーションの孵化(ふか)器となり、その役割を大きく変えた。
【次々に成功】
技術統括本部という小さな組織だからこそ、早期に縦割りを打破できたのは事実だが、その後の全社組織改革に先鞭(せんべん)をつけたと見ても良い。泉沢CSOは「僕らみたいに運営側にいる人間からすると、(一体運営が)本当にうまく回るのかと疑問視していた。だけどやってみると次々に成功する。限界を作っていたのは自分だった」と振り返る。
転機は再び訪れる。13年、軽自動車エンジンのオイル漏れ不具合で混乱していた三菱自動車の常務執行役員品質統括部門長として送り込まれる。開発や営業に直言し、元気をなくしていた品質部門に自信を与えた。益子修会長兼最高経営責任者(CEO)の薫陶を受け、仕事との向き合い方など多くを学んだ。
今後について「いろいろな所から突然イノベーションが起こり、方向感がはっきりしない難しい時代。幹部層の責任は大きくなる」と気を引き締める。
(文=編集委員・鈴木真央)
日刊工業新聞2018年12月24日掲載