18年間も巨人の控え捕手をつとめあげた「準備」の哲学

<情報工場 「読学」のススメ#49>『松坂世代の無名の捕手が、なぜ巨人軍で18年間も生き残れたのか』(加藤 健 著)

一度も1軍レギュラーになれぬまま18年間生き残る


 一時期、東京ドームに“日参”するほどプロ野球観戦に夢中だったことがある。チームスポーツとして楽しんでいたので、特定の選手に肩入れすることはあまりなかったのだが、当時巨人(読売ジャイアンツ)で活躍していた鈴木尚広さん(現・野球解説者)のプレーは気に入っていた。

 ご存知の方も多いだろうが、鈴木さんは現役当時「足のスペシャリスト」として知られ、引退した2016年シーズンまでの数年間は、ほとんど「代走」としての出場ばかりだった。それでも巨人ファンのみならず、ある程度野球を知っている人なら誰もが知る選手だったのは、盗塁の技術がずば抜けていたからだ。彼の代走での通算盗塁数は日本記録となっている。

 鈴木さんは「準備王」と呼ばれることもあった。試合当日は誰よりも早く球場入りし、入念にストレッチ等のメニューをこなす。何より印象に残っているのは、スタメンに入っていない時でも、試合中は常にベンチの端に陣取り、身を乗り出して戦況を見つめていたことだ。

 代走というのは、いつ出番がくるのか予想がつかない。その試合で出番があるかどうかすらわからないのだ。それでも鈴木さんは初回から真剣な表情でグランドを観察していた。

 後で知ったのだが、彼は、いつ代走に出されてもいいように、相手チームの投手や捕手、内野手などの動きを頭に叩き込んでいたのだそうだ。
 

 『松坂世代の無名の捕手が、なぜ巨人軍で18年間も生き残れたのか』(竹書房)は、鈴木さんと同じ年に巨人のユニフォームを脱いだ元捕手、加藤健さんによる著書だ。阿部慎之助選手という圧倒的な正捕手がいたこともあり、結局一度もレギュラーにはなれなかったが、「カトケン」の愛称で親しまれ、18年の長きにわたり巨人の控え捕手として活躍した。現在は、独立リーグの新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの社長補佐を務めている。

自分を「使いやすい商品」と考える


 加藤さんは新潟県立新発田農業高校で甲子園に出場した後、1998年のドラフトで3位指名され、読売ジャイアンツに入団。その2年後の2000年のドラフトでは阿部慎之助捕手が逆指名で入団を決めている。それ以来加藤さんは2軍暮らしが主となり、たまに控え捕手として1軍に呼ばれる、といった選手生活が続いた。

 そんなプロ生活初期の頃から加藤さんは、自分を「使いやすい商品」と考えることにしたそうだ。その商品を買う、すなわち1軍選手として起用するのは球団の首脳陣だ。いつでも必要になった時に“買って”もらうために、“使いやすい”ようにしておこうと、加藤さんは決心した。

 首脳陣は「新商品」が出れば、まず使ってみようと思うだろう。つまり、新人捕手が入団したり、トレードやフリーエージェントで他球団から捕手が入ってきたら、試しに1軍で起用してみる。もしその時、彼らがあまり使えなかったり、まだ1軍レベルの力が育っていないと判断されれば、信用できる「元々あった商品」を買うはずだ。加藤さんはそう考えて「そう思われた時のためにしっかり準備しておこう」と誓った。

 ここで「準備」という言葉が再び出てきた。そう、加藤さんは鈴木尚広さんと同じく、現役時代を通して、チャンスが来た時のための「準備」に心血を注いでいたのだ。

 加藤さんの「準備」とはどういうものか。「怪我をしない」のは大前提だ。故障していては「商品」にならない。その上で加藤さんが心がけていたのは「コミュニケーション」だった。

 捕手というポジションは、バッテリーを組む可能性のあるすべての投手の球種やクセ、性格などを把握しておかなければならない。そして控え捕手は正捕手よりもはるかに多くの投手の情報を仕入れておく必要がある。ある程度組む投手のローテーションが決まっている正捕手と違い、控え捕手は1軍・2軍問わず、どんな場面で誰の球を受けるかわからないからだ。

 加藤さんは、投手だけでなく野手にも、先輩・後輩・同期を問わず、できる限り話をすることを心がけていたという。投手と気心が知れていれば、緊迫した場面で急きょバッテリーを組むことになってもお互い安心できる。また、投手の性格やクセを理解していれば、捕手は臨機応変にサインを出すことができる。

 「自分を商品とみなす」というのは「卑下している」ような印象を受けるかもしれない。だが、いつでもニコニコと話しかけ、時には後輩に真剣にアドバイスをしたという加藤さんに対する選手たちや首脳陣の信頼は厚かったようだ。そうした信頼は、加藤さんの「自分はチームの役に立っている」といったプライドにつながっていたのではないだろうか。

 また「自分は商品」と割り切ることによる精神安定効果も大きかったと思われる。加藤さんは同書で「崖っぷち」という言葉を何度も使っており、毎年シーズン終盤になると「戦力外になるかもしれない」と思ったという。しかし経験を重ねるうちに、戦力外を過度に怯えることはなくなっていったようだ。

 自分は「商品」なのだから、買うかどうかを決めるのは首脳陣であり、自分ではどうすることもできない。自分ができるのは万全の「準備」を整えておくことだけだ――そう考えることで加藤さんの心は安定し「余裕」が出てきたのだろう。

 そうした心の余裕は、周囲にも安心感を与え、加藤さんへの信頼はより高まったのに違いない。それが、加藤さんが18年間同じ球団で野球人生をまっとうできた要因の一つであるのは確かだろう。
(文=情報工場「SERENDIP」編集部)

『松坂世代の無名の捕手が、なぜ巨人軍で18年間も生き残れたのか』
加藤 健 著
竹書房
254p 1,600円(税別)

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情報工場

冨岡 桂子

冨岡 桂子
01月28日
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 本書の加藤さんや鈴木さんの話は、競争の激しいスポーツ選手だけでなく、会社員など働く人にも十分参考になるだろう。「面白い仕事が回ってこない」「なんだか雑務が多い気がする」などと思ってしまうときでも、いつか巡ってくるチャンスのために準備をしておく。おそらくその準備でもっとも大事なのは「信頼の醸成」なのだと思う。忙しいと雑になりがちなのだが、どの業界でも、生き延びるためには常に信頼を勝ち取るよう心がけることが重要なのかもしれない。

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