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フォード傘下で生まれた初代「アテンザ」、リストラの渦でもマツダが譲らなかったこと

モノづくりの独自性を磨き続ける

バブル時代に販売チャンネルの多角化に失敗し、マツダは再び経営危機に陥った。1996年(平8)には米フォードモーターがマツダ株を33・4%まで買い増し、ヘンリー・ウォレス社長以下経営幹部を送り込んできた。

99年にはハーバード大学の経営学修士(MBA)を持つマーク・フィールズ氏が弱冠38歳で社長に就任。経営合理化策「ミレニアムプラン」を翌年発表し、宇品第2工場の閉鎖や1800人の希望退職募集などのリストラ策を打ち出した。

中型車「アテンザ」が発売されたのは02年5月のこと。新車投入は00年発売のスポーツ多目的車(SUV)「トリビュート」以来1年6カ月ぶり。新車の空白期間が長くなったのは、開発計画を白紙に戻したためだ。

マツダは99年2月、フォード承認の下で新しいブランド戦略を策定し、デザインや走りを自らの強みと位置付けた。新しい中型車は、新生マツダを象徴づける「ズーム・ズーム(自動車の走行音を表す英語の擬音語)」路線の第1弾。開発プロジェクトを中断してエンジンやプラットフォーム(車台)を全面刷新し、車名も7代続いた「カペラ」からアテンザに変えた。

フォード傘下時代、マツダはモノづくりの独自性を磨き続けた。フォードとマツダの生産部門は、85年から年に2回のトップミーティングを持って連携を深めていた。さまざまな指標からもマツダのモノづくりの方が勝っていたようで、フォードも生産部門には役員を送り込むことがなかった。「生産に関してはマツダの方が一歩前に行っていたし、フォードからあれこれ言われることもなかった」と生産部門を率いた元役員は振り返る。

新しいアテンザのモノづくりには、フォード傘下で研ぎ澄ませたフレキシブル生産の手法がつぎ込まれた。生産ラインを流れる車の車種や仕様を、受注に合わせて1台ごとに変える「計画順序生産」は、防府第2工場(山口県防府市)でのアテンザ量産開始に合わせて始めた。エンジンの機械加工でも、大量生産できる代わりに投資額がかさみ、生産品目の切り替えが難しいトランスファーマシンを撤廃。1軸のマシニングセンターが工具を持ち替えながら加工を進める、汎用性の高いラインに置き換えた。

アテンザに搭載した「MZR」エンジンはグループの中型車に搭載するため年間200万台規模でグローバル生産された。フォード傘下でマツダの役割は大きくなっていった。

日刊工業新聞2020年1月27日

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