将来有望な「勉強できる子」を“卑屈化”させる日本人の過度な平等意識
<情報工場 「読学」のススメ#30>『勉強できる子 卑屈化社会』(前川ヤスタカ 著)
米国の「反知性主義」とは似て非なる現象
「勉強できる子」が苦しまされる原因の一つに、教育に対する日本人の“表層的”な言説があると、著者は指摘している。
たとえば「勉強できる子」は、「知識を詰め込んでいるだけで思考力が身についていない」などとよく言われる。だが、本書で前川さんは、灘中・高の論理思考を徹底して身につける教育を紹介しながら、本当に勉強ができる子は「詰め込み型」の勉強をしていないことを指摘する。これは私の出身校でもそうだった。何しろ、日本で初めて実験的に「ゆとり教育」を導入していたのだ。
また、テレビドラマなどの影響もあるのか、勉強できる子は「頭でっかちで人に冷たく、人間味がない、いけ好かない野郎だ」といったステレオタイプのイメージが一般に浸透しているようだ。その根っこには、日本人特有の「同質意識」があるのではないだろうか。勉強できる子、つまり学業成績が優秀な子どもも、得意科目や勉強の仕方、動機などは千差万別だ。それを、上記のような画一的なイメージに押し込めて白い目で見がちなのだ。
ところで、本書のテーマから、トランプ現象に関連しても話題になった、米国の「反知性主義」を思い出す人もいるかもしれない。だが、これは似て非なるものだ。
森本あんり著『反知性主義』(新潮社)によれば、米国の反知性主義とは、知性そのものに反感を持つのではない。権力と知性が結びつき、民衆に画一的な「知」を押しつけることに反抗する考え方を指す。
米国の、というより西洋社会の根底に「個」の尊重があるのは間違いない。一人ひとりが「個」を確立し、自分が人と違うのは当然と考えている。同質性の高い日本人とは、前提からして正反対なのだ。欧米の「平等」とは、各々が「違う」ことを前提とした上で、「誰もが神の下で平等」とみなす考え方だ。そこに権力が画一的な「知」を押しつければ当然反発する。それが反知性主義だ。
翻って日本の場合「個」の確立が十分でなく、「皆同じ」という意味での平等意識がもともと強かった。そこに、明治維新や第二次世界大戦後、欧米流の平等主義が“接ぎ木”されてしまった。そのおかげで過度の平等意識が根づいてしまったのではないか。
「勉強できる子」たちは少数派だから、同質性の高いマジョリティの方に足を引っ張ろうとする。過度な平等意識から「出る杭」を叩く。それが、本書に描かれた「勉強できる子卑屈化」現象の正体ではなかろうか。
もちろん、インターネットの発達・普及やグローバリゼーションによって、日本人の精神構造も徐々に変わりつつある。若い世代を中心に「個」も確立されてきているのかもしれない。その流れを加速させることが、「卑屈化」がもたらす被害を最小限に食い止めることになるだろう。そのためには、本書などを参考に、まずは、われわれの根っこにあるものをしっかりと認識することが重要ではないだろうか。
(文=情報工場「SERENDIP」編集部)
前川 ヤスタカ 著
宝島社
246p 1,200円(税別)>
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