ゼロ戦のエンジン部品製造から、なぜ“ニッチトップ”になれたのか
ムラコシ精工、時代に翻弄されながら高付加価値を追求
ブレーキオイルを封止する重要保安部品のブリーダースクリューは月500万―600万個を生産。国内4輪・2輪車メーカーのほぼすべてに供給し、国内シェアは過半数を占める。組み立て家具向けに何度でも分解・組み立てを可能にした金具「鬼目ナット」は、海外でもそのまま「ONIMENUT」として通じるほどだ。
ニッチだがトップを走るその企業は、2018年に創業100周年を迎えるムラコシ精工。同社はなぜ、自動車部品と住宅設備部品という無関係な事業を始めたのか。答えは時代に翻弄(ほんろう)されながらも、生き残りを模索し続けた歴代社長の奮闘にある。
ムラコシ精工は1918年(大7)に、現社長の村越雄介の曽祖父、村越政右衛門が東京都渋谷区で始めたネジ工場が母体だ。38年(昭13)に現在の東京都小金井市に工場を新設。戦時中は中島飛行機(現SUBARU)の協力工場として爆撃機用部品を製造し、ゼロ戦のエンジン部品の製造にも携わった。
戦後は工場周辺にミシンメーカーが多かったことから、ミシン部品の製造業に転換。60年代半ばの最盛期には、工場の敷地面積が約1万3000平方メートル、従業員数は約500人に上った。
当時は高度経済成長期の真っただ中。小金井工場だけでは手狭になり、新工場用地を探した。「宅地化が進み、本社工場から100キロメートル圏内では早晩、同じことになると考え、200キロメートル圏内で探した」と現社長の村越は解説する。
この時に選んだ場所が、今は車部品の主力工場となった勿来(なこそ)工場(福島県いわき市)だ。設立は65年。当時、常磐炭田の閉山が相次いでおり、地域活性化の起爆剤として勿来市(現いわき市)の誘致を受け、同市の企業進出第1号になった。
ところがこの時、最初の“時代の波”が押し寄せた。台湾勢の台頭により、国内のミシン産業の競争力が一気に低下。この年を境にミシン産業の空洞化が顕著になった。
工場を建設したばかり。従業員も雇ってしまった。村越の祖父で2代目社長の村越一雄は「会社存続のためには業態転換が必要だ」と考えた。工場を見渡すと、旋盤や部品先端を切削する機械設備がある。今ある設備で何ができるか考え、出した結論が66年に生産を始めたブリーダースクリューだった。
「組織が好きではなかった。会社に入ったら人生は終わりだと思っていた」―。現社長の村越雄介は入社当時の心境を思い出し、豪快に笑う。
村越は明星大学理工学部を卒業後、電子部品工場やバイク便のアルバイトをして、カナダに留学するといった自由奔放な生活を送っていた。ただ、2018年に創業100周年を迎えるムラコシ精工創業家の長男として生まれた運命がある。村越自身、30歳を区切りと決めていた。製薬会社に3年勤務した後、99年に28歳で車部品を製造するムラコシ(現ムラコシ精工)に入社した。
その頃、主力だったブレーキオイルを封止する部品「ブリーダースクリュー」の撤退話が持ち上がった。利益率の低下が要因だ。それでも月300万個を生産している。村越の父で当時社長の村越政雄は継続を決め、03年頃に利益が出る新工法の開発に着手した。
切削から鍛造に一部切り替えて材料費を抑え、鉛レスにした新工法を完成。08年秋のリーマン・ショック直前にトヨタ自動車向けに採用が決まり、月産500万個になった。富士重工業(現SUBARU)からエンジン・トランスミッション部品の受注も増え、売り上げ減を押し止めた。
村越がこの開発過程で着目したのが検査方法だ。人の目で全数検査しており、約30人も検査員がいた。画像検査法への変更を思いつき、「俺にやらせてくれ」と社長に直訴。09年に画像による自動検査に切り替えた。検査員は2、3人で済む。利益率がゼロに近かったブリーダースクリューは今では車部品の中で利益率が一番高い製品に生まれ変わった。
事業継続計画(BCP)の観点で、13年に韓国子会社のムラコシアジアにブリーダースクリューを月100万個生産するラインを構築。15年には新型ハイブリッド車用ブレーキ加圧ユニットを受注した。東日本大震災時の指揮と車部品部門の経営手腕を評価された村越は16年3月、ついに社長に就任した。
「前社長は住宅部品のショールームを09年に東京・新宿、11年には福岡に開設し、住宅部品の一般販売に布石を打った。今後は一般向けの比率を高めたい」と意気込む。車部品では「勿来(なこそ)工場(福島県いわき市)は高付加価値製品に特化した工場にする」と話す。
二つの事業は長らく別会社だったため、従業員のコミュニケーションが希薄だ。「従業員の一体感を高める。そうでないとムラコシ精工で働く意味はないでしょう」と村越。次の100年に向けて、ネジを締め直す。
(敬称略)
ニッチだがトップを走るその企業は、2018年に創業100周年を迎えるムラコシ精工。同社はなぜ、自動車部品と住宅設備部品という無関係な事業を始めたのか。答えは時代に翻弄(ほんろう)されながらも、生き残りを模索し続けた歴代社長の奮闘にある。
ムラコシ精工は1918年(大7)に、現社長の村越雄介の曽祖父、村越政右衛門が東京都渋谷区で始めたネジ工場が母体だ。38年(昭13)に現在の東京都小金井市に工場を新設。戦時中は中島飛行機(現SUBARU)の協力工場として爆撃機用部品を製造し、ゼロ戦のエンジン部品の製造にも携わった。
戦後は工場周辺にミシンメーカーが多かったことから、ミシン部品の製造業に転換。60年代半ばの最盛期には、工場の敷地面積が約1万3000平方メートル、従業員数は約500人に上った。
当時は高度経済成長期の真っただ中。小金井工場だけでは手狭になり、新工場用地を探した。「宅地化が進み、本社工場から100キロメートル圏内では早晩、同じことになると考え、200キロメートル圏内で探した」と現社長の村越は解説する。
この時に選んだ場所が、今は車部品の主力工場となった勿来(なこそ)工場(福島県いわき市)だ。設立は65年。当時、常磐炭田の閉山が相次いでおり、地域活性化の起爆剤として勿来市(現いわき市)の誘致を受け、同市の企業進出第1号になった。
ところがこの時、最初の“時代の波”が押し寄せた。台湾勢の台頭により、国内のミシン産業の競争力が一気に低下。この年を境にミシン産業の空洞化が顕著になった。
工場を建設したばかり。従業員も雇ってしまった。村越の祖父で2代目社長の村越一雄は「会社存続のためには業態転換が必要だ」と考えた。工場を見渡すと、旋盤や部品先端を切削する機械設備がある。今ある設備で何ができるか考え、出した結論が66年に生産を始めたブリーダースクリューだった。
「組織が好きではなかった。会社に入ったら人生は終わりだと思っていた」―。現社長の村越雄介は入社当時の心境を思い出し、豪快に笑う。
村越は明星大学理工学部を卒業後、電子部品工場やバイク便のアルバイトをして、カナダに留学するといった自由奔放な生活を送っていた。ただ、2018年に創業100周年を迎えるムラコシ精工創業家の長男として生まれた運命がある。村越自身、30歳を区切りと決めていた。製薬会社に3年勤務した後、99年に28歳で車部品を製造するムラコシ(現ムラコシ精工)に入社した。
その頃、主力だったブレーキオイルを封止する部品「ブリーダースクリュー」の撤退話が持ち上がった。利益率の低下が要因だ。それでも月300万個を生産している。村越の父で当時社長の村越政雄は継続を決め、03年頃に利益が出る新工法の開発に着手した。
切削から鍛造に一部切り替えて材料費を抑え、鉛レスにした新工法を完成。08年秋のリーマン・ショック直前にトヨタ自動車向けに採用が決まり、月産500万個になった。富士重工業(現SUBARU)からエンジン・トランスミッション部品の受注も増え、売り上げ減を押し止めた。
村越がこの開発過程で着目したのが検査方法だ。人の目で全数検査しており、約30人も検査員がいた。画像検査法への変更を思いつき、「俺にやらせてくれ」と社長に直訴。09年に画像による自動検査に切り替えた。検査員は2、3人で済む。利益率がゼロに近かったブリーダースクリューは今では車部品の中で利益率が一番高い製品に生まれ変わった。
事業継続計画(BCP)の観点で、13年に韓国子会社のムラコシアジアにブリーダースクリューを月100万個生産するラインを構築。15年には新型ハイブリッド車用ブレーキ加圧ユニットを受注した。東日本大震災時の指揮と車部品部門の経営手腕を評価された村越は16年3月、ついに社長に就任した。
「前社長は住宅部品のショールームを09年に東京・新宿、11年には福岡に開設し、住宅部品の一般販売に布石を打った。今後は一般向けの比率を高めたい」と意気込む。車部品では「勿来(なこそ)工場(福島県いわき市)は高付加価値製品に特化した工場にする」と話す。
二つの事業は長らく別会社だったため、従業員のコミュニケーションが希薄だ。「従業員の一体感を高める。そうでないとムラコシ精工で働く意味はないでしょう」と村越。次の100年に向けて、ネジを締め直す。
(敬称略)
2017年3月28日/31日「不撓不屈」から抜粋