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「かっこいい生き方」とは何だろう?日常と異なる人間関係を求める若者たち

セカチューの片山恭一オリジナルエッセイ

若い人たちを中心に「かっこいい生き方」が変わりつつあるのを感じる。どのように変わろうとしているのか? 未来のために現在を犠牲にするのではなくて、いま楽しむ、自分のいる場所を豊かで充実したものにする、そういう生き方が模索されるように思う。

社会学では「コンサマトリー」という言葉が使われるようだ。アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの造語だそうである。適当な日本語がないために「自己充足的」などと訳されている。要するに「それ自体」ということだろう。「コンサマトリー」の反対は「インストゥルメンタル」で、これは「道具的、手段的」といった意味になる。ある目的のために自己を道具化する、日常の生活を手段化する。受験勉強が典型的である。志望する高校や大学に合格するという目的のために、部活や恋愛や趣味を抑制して勉強する。

働くことをインストゥルメンタルなもの考えない人が増えているように思う。お金を得るという目的のために自分を道具化するのは嫌だということだろう。道具的、手段的に働こうとすれば、きつい仕事でも我慢しなければならないし、嫌な相手とも一緒に働かなければならない。受験勉強のように一年や二年なら我慢もするが、一生つづけるのは耐えられない。だいいちそれは「かっこ悪い生き方」だ。

そうまでしてお金を稼いだところで、所有したいものがなくなっているということでもあるだろう。服はユニクロでいいし、車はシェアで充分だ。住む家だって、安いアパートに花や絵を飾り、IKEAの家具を趣味良く配して、自分なりの居心地のよさをつくり出すほうが楽しい。それはクリエイティブな作業であるからだ。コンサマトリーな生き方は一人ひとりが工夫しながらつくり出しくもので、しかるべきマニュアルのようなものはない。

服や車や家などを所有するために働くのではなく、居心地のいい職場で楽しく働く。自分の好きなことをして、食うに困らない程度のお金を得る。何かの手段として生きるのではなく、日々の暮らしそれ自体を楽しむ。現状快楽型とも言える生き方の背景には、一種の疲労感があるように思う。ローマ皇帝や江戸時代の将軍と比べれば、ぼくたちは格段に豊かなはずなのに、時代とともに豊かさの水準が引き上げられるものだから、最終的に「いったいいくら稼げば豊かと言えるのか」というところまで追いつめられてしまう。

お金にしてもモノにしても、もともと相対的なものでしかない。だから比べたくなるのだろう。どっちがお金持ちか、誰がいい車に乗っているか、どのくらい大きな家に住んでいるか。比べられたり競わされたりすることに、多くの人が疲れている。というよりも、それを趣味の悪い生き方と感じる人が増えているのではないだろうか。

コンサマトリーとは「それ自体」だから比較ができない。相対的というよりは絶対的、一つ一つが固有のものである。家族や友だち、恋人といった人間関係はまさにそのようなものだろう。こうした人間関係を大切にするというのも、いまの若い人たちに強くあらわれている傾向だと思う。また気候変動の危機を訴えるグレタ・トゥーンベリさんのようなティーンエイジャーが出てきていることからもわかるように、彼らは環境問題や資源エネルギー問題に敏感である。人間関係を重視するコンサマトリーな生き方は、資源やエネルギーをあまり使わず、地球にやさしいという点で現代的でもある。

良い友だちや仲間に囲まれて充実した人生を送る。自分も一緒にいて楽しい人でありたいし、魅力的で感じのいい人間になりたい。他人をよろこばせ、人のためになる生き方をしたい。自然災害のときに集まってくるボランティアの人たちを見ていても、そんな志向がはっきりあらわれているように思う。ボランティアに参加する動機はさまざまだろうが、やはり人間関係に重きを置いた生き方を求めているのではないだろうか。社会的に自分を認めてくれる人を求めている。あるいは日常とは異なる人間関係を求めている。ぼくには健全な志向に思える。

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