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日本人女性初のK2登頂から難民の妻に。小松由佳さんの困難との向き合い方

連載・倒れない力 #01
日本人女性初のK2登頂から難民の妻に。小松由佳さんの困難との向き合い方

「人生最大の困難は『今』」と笑うフォトグラファーの小松由佳さん

世界第2位の高峰「K2」の登頂に日本人女性として初めて成功した小松由佳さん。K2登頂後の2008年にアジアの砂漠や草原を旅する中でシリアの人々に魅了され、毎年通い、やがてシリアが内戦に突入していく様子を現地で見てきた。現在はフォトグラファーとしてシリア難民を取材するほか、難民となったシリア人男性を生涯の伴侶とするなど激動の人生を歩む。昨年9月に自身の半生を描いた著書『人間の土地へ』を出版した小松さんに、これまでの困難とその向き合い方などを聞いた。(聞き手・葭本隆太)

人生最大の困難は「今」

―小松さんの半生において最も困難な場面を教えて下さい。
 今ですね。K2よりも厳しい環境かもしれません(笑)。夫は(家族や友人とのゆとりの時間である「ラーハ」を実践するなど)シリア的な生き方や働き方を大切にしており、収入が不安定です。2歳と4歳の2人の子どもを育てながらも、私が生活を担わないといけません。まさにサバイバル状態です。

―その状況をどう受け止めていますか。
 正直、一時はこれほどまでにサバイバルな状況に陥ったのはなぜなのかとも思いました。ただ、(『人間の土地へ』という)本を書いたことで、その時々の私自身が大切に選んだ結果として今があると思いました。自分自身を振り返り、覚悟を決め直すことができました。

―ポジティブに捉えているのですね。
 すべてポジティブです。これまでの最大の選択は夫との結婚です。難民となりすべてを失って体一つで逃げてきた夫と結婚する覚悟を決めたことが岐路でした。そのときに、この人と一緒になると一生苦労すると思いました。ただ、その先に何があるか分からない未知の世界にドキドキもしていました。そういう不確定要素の高い選択肢をいつも選んできたような気がします。だから今はやはり自分が望んだ未来に生きているのだと思います。

―不確定要素の高い方を選ぶという感性はどのように形成されたのですか。
 幼少期からそうだったかもしれません。あとヒマラヤ登山をしていると、先が見えないという要素が大きくて、それが面白かったという経験の影響もあると思います。

―ヒマラヤには高校時代から憧れていたそうですね。
 アイガー北壁というヨーロッパアルプス三大北壁の一つを初登攀したオーストリアの登山家、ハインリヒ・ハラーのノンフィクション『白い蜘蛛』を読み、また、ハラーをモデルにした映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を見て、ヒマラヤの土地に生きる人の暮らしに興味を抱きました。とにかくヒマラヤに行きたいという思いが強くなっていました。

―母校である東海大学山岳部の50周年記念事業として、K2登頂への誘いがあったときも「ぜひ挑戦しよう」と即断されたのですか。
 実はとても迷いました。誘われた直前に最高峰のエベレストに登頂しようと現地に行き、結果的に登れずに帰ってきたという挫折がありました。ですから、K2でもまた挫折するのではないかと。ただ、そこで思ったのは、人から与えられるチャンスはその時を逃すともう二度と来ないということです。それで思い切って挑戦しようと思いました。

K2で見た忘れられない光景

―K2登頂をご自身のルーツとおっしゃっていますが、そのゆえんを教えて下さい。
 1カ月半ほどの登山でしたが、何度も生と死の境に立ちました。特に山頂に登ってから標高8200メートルにある最終キャンプ地「C3」に還るまでにものすごく厳しい時間を経験しました。登頂したその日のうちにC3までたどり着けず、共に登頂した後輩と斜面でビバークする時間がありました。その経験によって山から帰還したときに、人間が生きていることは、ただそれだけでかけがえのない特別なことだと気づかされました。

2006年8月1日、K2山頂に到達した

―ビバークをする判断が結果的には生還のカギになったかと思うのですが、極限の状態で冷静にそう判断できたのはなぜでしょうか。
 今思い返すと、危機が迫っていたと思いますが、そのときは割と淡々としていました。日本で厳しい登山を繰り返していたので、そうした状況に慣れていた影響もあるかもしれません。

―あまり恐怖心にも駆られないのでしょうか。
 恐怖心がないわけではありません。生きて還るために必要不可欠な感覚だと思います。(その上で)恐怖心や高度感、緊張感をいかにポジティブに捉えるかが大切だと思っています。

―K2に登頂した際に見た光景は覚えていますか。
 まるで昨日のことのように覚えています。決して体から抜けないですね。

―特に記憶に残っている光景はありますか。
 二つあります。一つは山頂から下を見た時に、これから降りる斜面が暗い穴のように見えたことです。ここを下るのかと。下が切れ落ちて底が見えないほどに暗く、生きて帰りたいと心から思った瞬間でした。もう一つはビバークから目覚めた時の朝焼けです。まだ辺りが暗く、眼下を見ると、紫色の雲海が広がっていて、そこから太陽の光が昇ってきて私たちを照らしていました。ビバークの一夜、酸素ボンベの残量がなくなり、また、マイナス20度くらいまで冷え込むため、疲労凍死する可能性もありました。その中で、朝が来て太陽の光を見た瞬間の感激は大きく、生きているのだと自然に涙が流れました。

K2登頂後、ベースキャンプに帰還した小松さんと、共に登頂した後輩の青木達哉さん

―K2登頂の後にパキスタン北西部にあるシスパーレの登山に挑戦され、その後に厳しい登山を辞める決断をされました。どのような気持ちの変化があったのでしょうか。
 それまでは山に登ることで自分が生きている感覚を強く持ち、だからこそ山に向かっていました。ただ、K2に登頂したころから自身の内面の変化を感じ、命を削るような登山を自分はもう求めていないと気付きました。ヒマラヤに登るたびに、麓の谷の暮らしを見る機会が多く、(その姿に)「人間が生きる」というイメージを強く抱くようになっていました。抽象的なのですが、ささやかな幸せに気づかされた感覚です。

シリア人にとってふるさとは「人」

―厳しい登山を辞めた後にアジアの草原や砂漠をめぐる旅に出られます。その中でなぜ、シリアとの関係が深くなったのですか。
 人が明るくフレンドリーで魅力的でした。特に私を快く受け入れてくれた家族がいて、そのよき出会いがあり、たまたまシリアに毎年行くようになりました。やがて内戦が起き、それを目の当たりにしたことで土地への思いが深まっていきました。

小松さんを受け入れたアブドュルラティーフ一家

―シリアの人たちは内戦に突入する過程をどのように捉えていたのでしょう。
 アラブの春が北アフリカで起きて、それがシリアにも飛び火してきたとき、他のアラブ諸国のように民主化のプロセスが実現するだろうという期待をみんなが持っていたように思います。そのため、泥沼の内戦になって国土が破壊されていく様子をシリア人自身が驚きをもって捉えていたようです。

シリアは(アサド政権による)50年近い独裁体制下で自由な言論が統制されており、人々はその改善を願っていました。世界では「内戦」と呼ばれていても、シリアの人々は「レボリューション」、つまり「革命」と呼びます。多くの犠牲を払ったけれど、この出来事は破滅への道ではなく、いつか訪れるシリアの平和な未来のために選び取られた一つの運動だったと人々は信じています。

―難民は避難生活が長くなっているかと思いますが、取材を続ける中でその方々に感じる変化はありますか。
 シリアに近いトルコに難民の取材に毎年のように行っていますが、以前は口々に言っていた「いつかはシリアに還る」という言葉を聞かなくなってきました。シリア情勢が改善されず、このままではいつまでも還れないだろうという思いが強くなっています。そのため、新しい土地に根を張り、そこに馴染んでいくことに心が移っているようです。

―シリア難民はふるさとを失ってしまうことをどう受け止めているのでしょうか。
 シリアの人たちにとって「ふるさとは人」という感覚を受けます。コミュニティーですね。私たちは農耕民族なので「土地」にふるさとという概念を持ちやすいですが、シリア人は土地よりもそこにあるコミュニティーに愛着を持っていると感じています。生まれ育った場所が空爆で破壊されて別の土地に移っても、そこにまた新しいふるさとを作るという感覚を持っているように思います。

難民は必ずしも伝えてほしいと思っていない

―フォトグラファーを仕事にされた理由を教えて下さい。
 ヒマラヤから離れ、草原や砂漠を旅して人と出会う中で、そうした世界に自分が感動して終わるだけでなく、記録して表現したくなりました。(写真という表現方法を選んだのは)リアルな場を流れる時間の一瞬をとどめ、見る人に想像の余地を残す試みにとても面白さを感じたからです。

―現在はシリア難民を取材されています。心に傷を負った彼らにカメラを向けるのは覚悟を伴う作業に感じます。
 なぜカメラを向けるのか、私の意志が問われると思っています。伝えたいというのはジャーナリスト側の思いで、必ずしも難民は伝えてほしいと思っていません。私はカメラを向けるときにとても関係性を大事にしています。一定の信頼関係を築いてから撮りたいと思っています。そしてなぜ写真を撮るのかを伝えて、理解してもらった上で撮影します。(具体的には)困難の中で生きようとする人間の姿を表現したいということと、伝えることでどのような循環が生まれるのかという話をしています。

―そうした姿勢を示すと、理解してもらえますか。
 受け入れてくれる人もいれば、そうでない人もいます。ただ、受け入れてくれない人とも付き合いは続いていて、撮ってもよいと言ってもらえるようになるときがあります。私はやはり、取材したいというより出会いたいのです。難民だからではなく、近づいて打ち解けて家族のような関係の中で撮りたいと思っています。だから、一度きりの関係ではなく、はじめから長いスパンで捉えています。彼らがどう生きていくのか、時間をかけて撮りたいので、それでいいと思っています。

トルコ南部、シリアとの国境の街レイハンルに暮らすシリア難民の子供たち。右端は小松さんの長男のサーメルくん

―これからどのような写真を撮り、伝えたいと考えていますか。
 同じ家族を何年もかけて取材しており、その家族がどのように変化して生きていくのかをいずれ写真集にまとめたいと思っています。

自分を知りながら相手を知る

―今の生活はサバイバルとおっしゃっていました。文化や習慣の異なる旦那さんとどのように互いを認め合って生活されているのでしょうか。
 本当に毎日の課題で、まだ答えは出ていません。緩やかに時間をかけて互いが生きやすい環境をつくっていくしかないと思います。生まれ育った土地も違うし、伝統や文化、宗教も違う。それでもこの7年、結婚して一緒に生活することで互いが近づきあってきたと思います。

小松さんの夫であるラドワンさんと長男のサーメルくん

―これまでに戸惑った価値観の違いはありますか。
 日本ではよく「郷に入りては郷に従え」といいますが、それは私たちの価値観で、アラブ人の夫はそういう価値観を持っていません。日本人は他文化に比較的寛容であると思いますが、他者に対しても同じような寛容性を期待しやすい。相手のこだわりを理解しづらいという文化を持っているかと思います。夫との生活ではそうしたことにも気づかされます。自分たちがどのような文化を持っているのか、自分を知りながら相手を知るという作業を積み重ねています。

―著書「人間の土地へ」を通して伝えたいことを教えて下さい。
 この本は私自身のノンフィクションであると同時に、私と夫の物語を書いた本で、シリアという土地をめぐる物語でもあります。内戦によって多くのシリア人が難民になっている中で、彼らがどのように今を生きているのかもテーマにしています。特に新型コロナウイルスの感染拡大もあって、シリアの問題は報道が少なくなり、関心が寄せられなくなっています。その中で、シリアという土地や、そこから逃れた難民たちに興味を持ってもらうきっかけになればと思っています。自分の生活圏の中だけではなく、少し離れた世界にも同じ地球を生きている人間がいて、それを意識するきっかけになればと。これまでシリアに興味がなかった人にも読みやすく書いたので、あらゆる人に読んでほしいです。

【略歴】フォトグラファー。1982年秋田県生まれ。高校時代から登山にみせられ、国内外の山に登る。06年に世界第2位の高峰K2に日本人女性として初めて登頂した。草原や砂漠など自然と共に生きる人間の暮らしにひかれ、旅をする中で知り合ったシリア人男性と結婚。12年からシリア内戦・難民をテーマに撮影を続ける。著書に『人間の土地へ』『オリーブの丘へ続くシリアの道で ふるさとを失った難民たちの日々』がある。
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葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
困難と向き合う人間の力にフォーカスしたインタビュー連載を企画し、タイトルには「倒れない」という言葉を使いました。「打ち破る」や「乗り越える」よりもまず、その困難を受け止めて倒れない力が重要と考えたからです。日本人女性初のK2登頂やフォトグラファーとしての難民取材、難民となった男性との結婚生活などを語る小松さんの言葉は困難の受け止め方を考える上で多くの学びがあるように思います。

特集・連載情報

倒れない力
倒れない力
人が困難に突き当たった時にはどのような力を発揮するでしょう。「突き破る力」か「乗り越える力」か。まずは困難を受け止め、「倒れない力」ではないでしょうか。登山家やコラムニスト、緩和ケア医、経営者たちに聞いた人が持つ「倒れない力」を紹介します。

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