作家・小川洋子さんがものづくりの現場で覚えた感動と抱いた誇り
『金属はまるでそれが自らの意思であるかのように、穴を受け入れている。この密やかな営みを、火花が祝福している』―。映画化もされたベストセラー小説『博士の愛した数式』などで知られる芥川賞作家・小川洋子さんは、工場の技工士が放電加工で金属に穴を開けるシーンをそう書く。1月に発刊したエッセイ集『そこに工場があるかぎり』の一節だ。同書は幼少期から工場に思い入れのあった小川さんが、小説家となった今の自身の言葉を使って六つの工場の取材体験を記した一冊。取材では数々の驚きや感動があったとともに、小説家という仕事への思いを新たにしたという。小川さんに工場やものづくりに感じる魅力や、小説家がエッセイを書く意味などを聞いた。(聞き手・葭本隆太)
モノを作る人に憧れがあった
―執筆の経緯を教えてください。
科学者の方々にインタビューをしたエッセイの本(※)を以前に作り、文学とは異なる分野の方々にお会いしてお話を聞くことがとても楽しいと感じました。それで今度は工場見学に行きたいなと。工場という場所は、子どもの時から好きで、近所に小さい工場があり、その奧で何を作っているのかなという好奇心をずっと持ち続けていました。
※『科学の扉をノックする』:宇宙や鉱物、遺伝子などの分野で活躍する科学のスペシャリスト7人にインタビューし、まとめたエッセイ集。2008年4月に刊行し、11年3月に文庫化された。
―本書でも幼少期には自宅近くの工場の前で、火よけの鉄仮面をかぶって作業する工員を見つめていたと振り返っていますね。
人が一生懸命にモノを作る姿が格好よく見えました。モノを作る人に対する憧れがありましたね。
―取材した六つの工場はどのように選ばれたのですか。
まず、1回目をどこにするか。とても悩ましかったのですが、たまたま見た地元のテレビ局のニュースで紹介されていた(細穴放電加工を手がける)エストロラボ(大阪府東大阪市)さんに興味を持ちました。屋号は細穴屋さんですね。穴を開けることだけを仕事にしているのが魅力的で、そのような仕事があるのかと思い、自宅から近い東大阪市ということもあって訪ねました。(実際に訪ねると)穴を開けている部品が、どのような製品に使われるか知らないと(エストロラボの)社長に聞き、驚きました。そこまで穴だけを見つめているのかと。
―最後は鉛筆を製造する北星鉛筆(東京都葛飾区)です。小川さんの仕事に縁が深い場所ですね。
昔から人間は筆記用具で小説を書いてきたわけで、もっとも小説と縁が深い道具ですよね。長い歴史を持ちながら、縁の下の力持ちに徹しているというのはもちろん、工場を訪ねる前から分かっていたのですが、(実際に工場に足を運び、縁の下で支えるその存在感の大きさに)思いを強くしました。(北星鉛筆の社長から鉛筆は)「減った分だけ、何かを生み出している」という言葉も聞きました。人に何かを授けて自分は消える。私が書きたいと思っている登場人物のようだと思いました。
―細穴屋や北星鉛筆をはじめ、取材された六つの工場はいわゆる町工場です。小さな工場をあえて選んだのですか。
自動化された機械ではなく、人の手が何かを作る場所という視点で工場を探していたので、結果的にそうなったのだと思います。
―モノを作る人の手に強い関心をお持ちだったのですね。
私はとても不器用で、図画工作の時間に醜いモノしか作れないことがコンプレックスでした。手だけを使ってモノを作っている人は、すごいなと前から思っていました。2本しかない腕、10本しかない指でモノを作るというのは本当に偉大なことです。しかし、考えてみれば小説も手で書いていますよね。手を使って一字一字積み上げていきます。今回取材した工場の職人さんたちと同じように、毎日の積み重ねが一つの作品、製品になるという意味で共通点を感じ、うれしかったですね。初めはものづくりへの憧れが強かったけれど、自分もモノを作っているじゃないかと。小説を書いている人間としてモノを作っていることに誇りを持ちたいと思いました。
―工場は今、自動化や人工知能(AI)の活用などが進んでいます。ある意味、工場から人が消えていくような動きです。そうした動きに寂しさを感じたりしますか。
いえいえ。そういった工場にはきっと別の魅力があると思います。私は科学も大好きですから。技術はどんどん発達しており、人間が想像もできないようなことが工場で行われているのだろうと思うと興味が湧いてきます。もしかしたら、今回の本とは正反対の方向から企画した最先端の工場を見学するエッセイ(の執筆)が可能かもしれませんね。
―小川さんが感じる工場やものづくりの魅力で、特に読者に伝えたいことはありますか。
「単純なものも決して単純には作れない」ということに感動して、それを伝えたいと思いました。多くの人が気づいていない製品の魅力も伝わればよいと思います。あとはそこにいる人ですね。それぞれの社長さんや職人さんたちに共通していたのは広い視野を持っていること。目先の利益やコスト削減はもちろん大事でしょうが、自分たちの仕事が社会にどれだけ貢献しているかを熱く語ってもらいました。(取材の)最初はどのようにモノを作っているのかを聞くところから始まりますが、行き着くところは人生観というか。人間が生きているということを根本で支えているのは、他者の役にどれだけ立っているかということなのだと教えてもらった気がします。
感動の100%は言葉で表現しきれない
―本書ではものづくりの工程などを描写する際の物語的な表現が魅力的です。こうした文章はどのように生み出しているのですか。
(パソコンの前に座って現地の)写真を見たり、録音した音声を聞いたりして頭の中に工場をよみがえらせていくと、文章のイメージがわいてきます。もう一度、頭の中で工場見学をするような感じでしょうか。
―逆に描写が難しいと思うことはありましたか。
私が現場で受けた感動の100%は、表現しきれていないと感じています。自分の未熟さを感じて常に苦しいところです。あれほどすごい機械だったのにとか、(本書で取材した江崎グリコの菓子工場見学施設「グリコピア神戸」の中で)流れてくるポッキーはあれほどかわいらしかったのにとか。それだけ言葉というのは不自由な道具なのかもしれませんが。
―その中で100%に近づけようとした場合、どう試みるのですか。
できるだけ自分自身の感情は抑えることですね。自分が興奮してしまうと視野が狭くなります。観察者として一歩引いてその記録を客観的に書いていくということは心がけました。私自身を表現したいのではなく、工場を表現したいのだと、言い聞かせながら書きました。
現実社会には隠れた素晴らしい物語がある
―小説家である小川さんがエッセイを書く意義をどのように考えていますか。
自分の狭い世界から飛び出すきっかけがエッセイを書く仕事ですね。小説を書いていると自分だけの世界に閉じこもってしまいます。自分が知らない場所に取材に行くことで、世界はもっと広いのだということを確認できます。
―実際にその体験が小説を創造する過程で生かされると。
小説は自分の頭の外で起きていることに助けてもらわないと書けません。空想は、宙に浮かぶ雲をつかむようなものではなく、しっかりと現実に根ざしています。現実の世界で、見たり聞いたり触れたりするところから生まれてくるものだと思います。また、現実社会の中には、隠れた素晴らしい物語があります。鉛筆の芯一本にもですね。(それらは)私の想像では及びもつかないものですし、それを知らないと自分の想像力は育てられません。
―今回、工場という場所を取材されたことが小説家としての小川さんに与えた影響はありますか。
小説は大きな声で自己主張ができる人ではなく、そのような必要を感じずに世界の片隅で静かに、しかし自分に与えられた使命をコツコツと果たしている人を書かなくてはいけないなと思っています。自分は今までもそういった人たちを書き続けてきたと思っていますが、それを続けたいという思いをより強くしました。
==小川さんが取材した6つの工場==
エストロラボ〈屋号 細穴屋〉/細穴放電加工の工場
グリコピア神戸/菓子工場見学施設
桑野造船/ボート製造工場
五十畑工業/大型乳母車・介護用品の製造工場
山口硝子製作所/ガラス管の火炎加工などに特化した工場
北星鉛筆/鉛筆製造などの研究開発会社
【プロフィール】1962年岡山市生まれ。88年『揚羽蝶が壊れる時』で海燕新人文学賞を受賞。91年『妊娠カレンダー』で芥川賞受賞。04年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞を受賞、同年『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞を受賞。06年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞受賞。07年フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。20年『小箱』で野間文芸賞を受賞。他に『薬指の標本』『琥珀のまたたき』など多数の小説、エッセイがある。海外での評価も高い。