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70数億の人類が潜在的な「家族」を生きている。殺し奪うだけが人ではない

2年前に、はじめてクルーズ船というものに乗った。楽しかったので来年もまた行こうと思っていたらコロナになった。旅の途中、船はポルトガルのリスボンに立ち寄った。

大航海時代、ポルトガルはバスコ・ダ・ガマを先頭に勇んで大海原へ漕ぎ出した。そうして世界中を荒らしまわっているあいだに、肝心の本国はよその国に占領されていた。おれたちは根無し草になってしまった、祖国はどこだ? それで「サウダーデ(郷愁)」なんて言っている人たちである。

彼らの下部構造はかなりバリアフリーが進んでいたようで、侵略した国々で異人種間の交配が進んだ。だからスペインなどと違って露骨な植民地政策をとらなかったとされる。家族や孫がいる国に、あまり無慈悲なことはできないからではないか(あくまでも個人的な憶測です)。

いまやグローバルの時代、新型ウイルスの伝播とともに、あらゆる人種・民族の異人種交配はこれまで以上に急速かつ広範に進むと考えられる。たとえば、である。何年か前にうちの息子は友だちとマチュ・ピチュに遊びにいった。マチュ・ピチュといえば標高3000メートルを超える高峰である。登っている途中で高山病になってしまった。そのとき親身に看病してくれたのが褐色の肌をした一人の娘、彼女と息子は恋に落ち、ほどなく結婚して家族をなした、としよう。彼女の一家とぼくの家族は親戚である。ペルー人と日本人が、ケチュア族の末裔とモンゴロイドの末裔が親族をなす。そういうことが、これからはどんどん起こってくると思うのである。

驚くべきは、こうした出会いのほとんどが偶然に、多くは軽はずみやふとした出来心から、まるで路上の接触事故のようにして起こっていることである。いつ、どこで、どのようにして誰と誰が出会うかわからない。あらかじめ決まった道筋や運命のようなものはない。しかも蓼食う虫も好き好き、客観的な優劣や美醜の入り込む余地はない。

いまや70数億の人類が、人種、民族、宗派、国籍を問わず、また肌の色、容姿、身長、体重、体型などにかかわらず、相互にアクシデンタルな軽はずみと出来心に開かれている、と言っても過言ではないだろう。誰もが誰かと出会い、恋に落ちて家族をなし、海を隔てて親戚をつくる可能性とともに生きている。

映画『タイタニック』の最後のほうで、冷たい氷の海に浸かったジャックが船上で出会ったローズに向かって「きみは生きろ」と言う。たまたま豪華客船に乗り合わせたという偶然から、たった数日のあいだに、それまで見ず知らずだった赤の他人が「私よりも大切なあなた」になり、誰に強制されたわけでもないのに、「きみは生きろ」という至上の言葉を発するに至る。

この振れ幅が人間ではないだろうか。たしかに殺し合い、奪い合うのも人間で、人類は長くそうした生存競争のなかを生きてきたわけだけれど、足元の土の下にはいつも「きみは生きろ」という自然がある。春の芽吹きを待つ植物のように息づいている。たとえ地表は熾烈さを増してひどいことになっていても、ぼくたちは常にやわらかな自然に足を接して生きている。

だからどこの馬の骨とも知れない者同士が出会って「うち、あんたのことすいとるばい」とか言って家族になるのである。そんなことを人間は何万年も、何十万年もつづけている。一度でも途絶えたら、人類は絶滅していたはずだ。現に人間がつづいていること、いまこの瞬間にも下部構造をバリアフリー化させて家族をなす若い人たちが後を絶たないこと。それこそ、ぼくたちが70数億の潜在的な「家族」を生きていることの証しなのである。

たわいのない話に聞こえるかもしれない。でも楽しいじゃないか。心が伸びやかになる。やわらかいものが心地よく胸に吹き込んでくる。ぼくがメインワークにしている小説はフィクションと呼ばれる。フィクションだから表現できることがある。70数億の潜在的な「家族」は、フィクションとしてなかなかいい線をいっているのではないか。少なくとも神や国家や貨幣よりはずっといいと思うのだが、どうだろう?

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