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ネット市場の先駆者が語る「後悔」と「もう一つの未来」【IIJ・鈴木幸一】

連載・倒れない力 #04
ネット市場の先駆者が語る「後悔」と「もう一つの未来」【IIJ・鈴木幸一】

「自分がやりたいことに挑戦しようとすれば困難に突き当たるもの」と話すIIJの鈴木幸一会長

「自分がやりたいことに挑戦しようとすれば困難に突き当たるもの」―。インターネットイニシアティブ(IIJ)の創業者である鈴木幸一会長は、困難続きだった経営者としての半生をそう振り返る。IIJは1993年に日本初となる商用インターネット接続サービスを立ち上げた。郵政省(現・総務省)からネット接続事業者としての登録がなかなか受けられず、資金調達もままならない状況を突破して日本におけるネット市場の扉を開いた。その後も技術を軸に挑戦を続け、あるときは夢破れた。そんな鈴木会長にこれまで突き当たってきた困難とそれを乗り越えられた理由、また、失敗をどのように消化してきたのかを聞いた。(聞き手・葭本隆太)

可能性を確信していた

―日本初の商用インターネット接続事業を実現した過程で最も解消が難しかった障壁を教えて下さい。
 (90年代前半の当時は)新しい取り組みということで理解者がいなかったことかな。電話しかなくて、インフラを持った人たちがサービスをすべて作っている時代だったからね。「電話に代わるもの」という大きなことを言っていたけど、なかなか難しかったよね。まぁ実際には電話に代わったわけだけど。

―どのように理解を促されたのですか。
 いや、結局は理解してもらえなかった。(通信事業の監督官庁である)郵政省は公益事業である通信に、資金力のない僕らが取り組むということに違和感があったのじゃないかな。しかもネクタイをしているのは僕くらいの怪しい会社だったし(笑)。

1992年に創業した時のオフィス(東京都千代田区)。資金がないために解体前のビルに陣取った

―ネット接続事業者に必要な「特別第二種電気通信事業者」としての登録をめぐる郵政省との折衝は長く堂々巡りが続きます。最終的には登録する財務基盤の具体的な要件が提示され、資金調達にもたどり着きますが、苦しい状況が続く中で、会長の心が折れることはなかったのですか。
 意地になっているの。なかなか折れないよね。本当に会社が倒れていたら折れていたのだろうけど、ギリギリ生き延びられて。最終的には(ネットについて)理解はしていなかったけれど、(金融機関から)融資しようという声があってね。最後には運があったのかな。いや(事業認可まで郵政省に)1年数カ月も待たされて運があったとは言えないよな。

とにかく、「インターネット」という技術革新があって、仮にIIJがなくなっても、それがいずれ電話に代わるということに対して揺らいだことはなかったな。確信していたね。

―なぜ確信できたのですか。
 僕らが世界で初めてだったら、あまり頑張れなかったかもしれないけど、アメリカではすごく伸びていたし、軍が真剣に取り組んでいたから。それにコンピューターサイエンスをベースにして通信するという試みは1960年代の後半から長く続けられていたし。だから、この方向が間違っているということはなく、誰かが成功する技術だと思ってたよ。

―ネット接続事業を開始した当初、ネット活用の未来をどれくらい見通していましたか。
 今のような(ネット上で多様なサービスが展開される)状況は当時から見通していたよ。だから当時はネット上で動くアプリケーション(の提供に取り組む人たち)が出てくればと思っていて。求人とか不動産とか広告とか、みんな考えたよ。別に自分の独創ではなく、アメリカではそういった新しい事業がたくさん出ていたから。ただ、例えば電通に行っても「へぇ」とか言われて終わり。なかなかうまくいかなかったね。そういう意味で当時は(ネットという新しい技術を使ってビジネスを行うという考え方が)早すぎたのだろうね。2000年ころからみな一斉にやり始めたから。

―早すぎた提案は誇れるものではないのですか。
 技術で先行しすぎたことのメリットをビジネスで生かせなかったからな。ビジネスをするときは技術ではなく、アイデアだったりするじゃん。

―ネット市場の立ち上がり期に競合の参入を歓迎された姿勢も印象的です。96年にはNTTがネット接続事業の参入を発表した際に、多くのネット接続事業者(ISP)が参入に反対の声を上げ、会長は業界の代表として役所に陳情するよう要請を受けたものの、それを突っぱねたそうですね。
 フェアな競争はいつも必要だよ。僕らはそれをやった上で生き残っていきたい。まぁ、当時は「役所に陳情するくらいなら止めた方がいい」とか(他のISPに)言って長いこと村八分だったけどね。

―現在はネットの世界で、新しい事業を作ろうとする起業家がどんどん出てきています。
 あまりスタートアップの動向はわからないけど、日本の若い人たちは地球規模のマーケットでプランを創るという発想はないのかな。1億人程度しかいない国内でマーケットを探しているように思う。僕らはもともと地球規模のマーケットで勝負する気で米国で株式公開したから。それでも結局、日本の仕組みの中でやってきたことを残念に思っていて。まぁ、地球規模と国内を比較して考えると初めからスケーラビリティーが違うよね。

―スケールが小さいと。
 ネットは空間を超えられるから。国境がないわけだから、欲を言えば世界中にレピュテーション(評判)が得られるようなビジネスにトライするといいと思うよ。ゲーム業界なんかはやっているけどね。

米国資本で世界的企業になる道があったかも

―創業29年になるIIJの経営において最も困難な場面はいつでしたか。
 やっぱりクロスウェイブコミュニケーションズ(CWC※の破綻)かな。資金繰りが厳しくなって立ち行かなくなった。あれもなかなか信じがたいのだけれど理解者が少なかったな。新しいことに対して応援するよりもまず疑っていたから。(日本は)あれだけものづくりの世界はリードしたのにね。通信は目に見えない世界だから、そういうものに対する投資は苦手なのかもしれないな。今までの常識ではないことを説明するのが大変だった。

CWC:新しい技術を活用してデータ通信専用の通信インフラを整備しようと、ソニーやトヨタ自動車の支援を受けて98年10月に設立。日本で初めて広域イーサネットサービス「広域LANサービス」を提供した。売り上げわずか1億円程度で、事業コンセプトと将来の事業計画しかない00年に米国ナスダック市場に「コンセプショナルIPO」という方式で上場し、300億円弱を調達した。しかし、03年8月に資金繰りの悪化により会社更生法の適用を申請した。

―CWCの破綻について今、会長はどう振り返りますか。ご自身の経営判断に後悔はありますか。当時の周囲の無理解を嘆くことはあるのでしょうか。
 僕(のかじ取り)が下手だったんでしょう。(今思えば)初めから米国のファンドだけで資金調達すると面白かったのかもしれない。「コンセプショナルIPO」で300億円弱の資金を調達したときは褒められたけど、それを使い切って、いざ資金繰りが苦しくなったときに日本企業はなかなか助けてくれなかった。売り上げに対して投資額が大きいから融資や増資ができないと。もちろん投資額は大きいよ。ただ、世界レベルで見たときにCWCのような企業にとっては当たり前(の投資額)。その認識のギャップは大きかった。その部分を説得できない僕がいけなかったのだろうけどね。

―米国の投資家や投資ファンドからは出資の申し出があったものの、公益事業の通信を担う企業として断わったと著書などで明かしています。
 まぁバカだったよね。譲っておけばよかったのよ。日本の企業としてグローバルな企業を目指したということに限界があったのかもしれないな。別に日本にいる必要はないじゃんって。そういう風になれなかったな。

―仮にもう一度同じ場面が来たら選択は変わりますか。
 今度は受けるんじゃないかな。それでグローバルで面白いことができたと思う。もっと明快に米国の巨大資本を入れて、米国の会社になってしまうかもしれないけど、あの分野で世界的な企業になるという道があったかもしれないな。まぁ今はあまり向き合いたくない過去だよ。

―CWC破綻の経験がその後のIIJの経営のかじ取りに影響を及ぼしたことはありますか。
 たぶんどっかであるのだろうね。慎重になったとか。臆病になったのかもな。それはプラスとは思えないよね。会社の存続をいつも優先させてしまう。例えば、クラウドサービスを提供するときもアマゾン・ウェブ・サービス(AWS)と本当に競争するのか、莫大な投資をして世界に勝っていくのか。(現実は)それよりもIIJのスケーラビリティーの中で日本のマーケットを取っていくという判断になるでしょ。だから、ある失敗がいつもよい反面教師になるとは思わないな。

「技術者帝国主義」への思い

―CWCの破綻はIIJの経営にも暗雲をもたらしました。ただ、IIJはそれから3年半後に東証一部に上場します。会長自身の気持ちや組織を建て直せたのはなぜでしょうか。
 (CWC破綻の直後には社員に)誇り高き失敗とかって言ってたな。まぁとにかく社員は誰も辞めなかったの。あれは大きかったな。

―そういった組織がなぜ構築できていたのでしょうか。
 組織とは言えない組織だったけどね。自主的にこの会社が好きという人たちがいてくれて。ある種の結束力が働く会社だったな。

2006年12月に東京証券取引所市場第一部に指定替えした(05年12月にマザーズ上場)

―組織作りで意識されてきたことはありましたか。
 組織作りは得意じゃないの。社員のみんなが一番やりたいような形でやれればいいと思っていたけどね。

―著書などでは技術者にある程度の遊びを許容するような投資戦略の重要性に言及されています。そうした姿勢は技術者たちの求心力になりそうです。
 開発投資は削減したら先がないと思っていたから。ありったけの資金は技術競争に振り向けていたよ。IIJは不幸なことに競争相手がNTTとかKDDIとか、無限に資金があるような大企業が相手だから。そこで生き延びるには技術しかないでしょ。

―そうした姿勢を含めて「技術者帝国主義」と揶揄されたこともあったようですが、それは会長が望んで作り上げたのですか。
 望んでないよ。本当は営業もバランスよくしないといけない。ある人には「営業と技術という二つのタイヤの大きさが違いすぎる。それではその場でクルクル回っているだけ」と言われたよ。うまいこというなと思ってね。それで途中から営業を採用し始めたよ。

―それでもインターネット技術の主導権を取り続けるという経営理念を実現する上では、技術者が力の源泉になるのではないですか。
 まぁ資本力がないから。マーケティング競争はやっぱりお金の競争じゃん。それなら技術で一つでも新しいサービスを作っていくことを優先したの。別に営業をかわいがらなかったわけではないよ。初めて新卒で営業部門を11人採用したときは、IIJのサービスは理解するのが大変だからと心配で僕が面倒をみたの。そしたらその秋までに10人が辞めちゃって。厳しすぎたのかな。昔は怖かったのよ僕、今は天使みたいだけど。

―数々の困難がありながらも現在は売上高2000億円、社員3500人以上の企業に成長しました。
 ゼロが一個少ないよな。10兆円くらい売り上げる会社になる気だったから。

音楽祭という「道楽」を続けてきた理由

―CWC破綻後すぐの05年に音楽祭を始められました。
 音楽祭は会社が元気がいい時に開催を決めていたの。もともと音楽は好きで、(音楽関係の)知り合いもたくさんいて。(指揮者の)小澤征爾さんらに日本から音楽を発信していこうと提案されて共感してね。それから準備に何年もかかって、不幸にして始まる前にCWCがこけたという。でも止める気はなかった。

―それだけ開催したかったということですか。
 いや、さすがにやりたくなかった。お金がなかったから。でもまぁなんか絶対やろうということになったな。

05年に始めた音楽祭は15年以上続いている(写真提供:東京・春・音楽祭実行委員会/撮影:青柳 聡)

―それから15年以上続き、昨年はその活動が評価されて文化功労者に選出されました。
 たくさんの音楽家が応援してくれたからね。(例えばイタリア人指揮者の)リッカルド・ムーティさんに「素人が音楽祭なんてやっていていいのか」と話したら「音楽関係者よりもただ、好きな人がやるのが一番いい」とか言われて。東日本大震災が起きた11年の音楽祭は(聴衆などが)みんな泣いて感動的だったな。悲しい出来事があったときに音楽祭は人を勇気づける力があるよね。そうした体験を重ねるとずっと続けなくてはと思うよ。

音楽は記念碑とかと違って、記憶にしか残っていかないところがいいよね。来てくれた人と記憶で共有するというのがいい。僕の趣味に合っているな。まぁでも観客を集めるのは苦労してきたよ。昨年も大変で。(新型コロナウイルス感染拡大の影響で)ほとんど開催できず払い戻しだから。道楽は仕事より大変だね。

―その道楽を持っていることが、仕事によい影響を与えているということはありますか。
 それは関係ないな。夢中になると大変だよ。道楽でなくなるとね。(それでも音楽祭の開催に注力してきたということは)CWCがこけて、ある面では変な度胸がついたのかな。

―会長が困難に直面した時に意識することはありますか。
 一言では言えないな。あきらめない。というかさっぱりした性格の割に勝つまでやるというところがあるね。音楽祭もそうだよ。初めはお客さんが来なくて困ったから。東京文化会館(のホール)ってやけに真っ赤だなと思っていたの。それはお客さんがいなくて椅子の色が露出していたからだったのだけど。

【略歴】インターネットイニシアティブ会長兼CEO。1946年神奈川県生まれ。92年インターネットイニシアティブ企画(現インターネットイニシアティブ)を設立。94年社長に就任。日本における商用インターネットサービスの先駆者として20年以上にわたり新しい通信インフラ市場を切り拓く。13年より現職。05年から実行委員長として東京・上野で音楽祭を開催。著書に「日本インターネット書紀」「日々酔狂 インターネット創業10年未だ交戦中」など。
ニュースイッチオリジナル
葭本隆太
葭本隆太 Yoshimoto Ryuta デジタルメディア局DX編集部 ニュースイッチ編集長
時には冗談を交えながら、時には悔しそうに過去を振り返る鈴木会長の話にとても引き込まれました。特に「失敗がいつもよい反面教師になるとは思わない」という言葉は重く、また、それでも失敗から立ち直れた背景にあったものについてはぐらかしながら語る姿が印象的でした。

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