「DVDの生みの親」元東芝・山田氏に聞く。BDに負けた理由、サムスンに負けた理由
DVDの生みの親が見た東芝の栄光と挫折。1996年に世界初の家庭用DVDプレーヤーを発売しただけでなく、記録用光ディスクとして家電業界のデファクトスタンダード(事実上の標準)を確立してソニーに勝利した。一方で、DVDの後継争いではそのソニー主導のブルーレイディスク(BD)に敗れた。2015年の経営危機を境に家電やパソコン事業を次々と売却し、インフラ専業に生まれ変わった。DVDの生みの親、DVDの神様と呼ばれた元東芝首席技監の山田尚志氏(やまだ・ひさし)の目に、新生・東芝はどう映っているのか。
―国立科学博物館の重要科学技術史資料(未来技術遺産)として東芝のDVDプレーヤーなどが2020年9月に登録されました。
「私がDVD開発を始めたのは東芝で50歳になった頃だった。とにかく将来はトーマス・エジソンのように大発明しようと思っていたのに何も成し遂げていなかった。1992-93年に(東芝が当時出資していた)米タイムワーナーとの共同開発テーマがいろいろあがる中で、DVDがその一つに選ばれた。CDの生みの親であるソニーの土井利忠博士の本を読んで『次はDVDだ』と書いてあり、もともとDVD開発をやってみたいと思っていたので飛びついた。あの頃、何もないところから開発に乗り出した」
―DVD開発を振り返って、印象深い出来事は何でしょうか。
「一番苦労したのは、DVDプレーヤーに搭載する再生用ファームウエアの開発だ。技術者を最大300人集めて、このボタンを押したらどうなるかなどのデバグ(欠陥除去)を必死に行った。パソコンの再生ソフトの場合は、OS(基本ソフト)が全てをコントロールしてくれるから楽だった。プレーヤーのOSも自分たちでつくったので、バグ(欠陥)がいっぱい出てしまった」
―DVDの大成功のおかげで、当時DVD担当だった西室泰三専務が社長に昇進できたとか。
「社内でもそう言われていた。西室さんがDVDで社長になったから、周囲の人間も私にごまをするようになった。規格化の際に世界中をいっしょに飛び回ったので、一の子分だと思われたのだろう。ソニーの人から『もし山田さんがソニーでDVDをやっていたら、専務か副社長ぐらいまでいけたのにもったいなかったね』と言われた。ただ、昔、IC開発をやっていた頃にソニーも当初そのICを使うはずだったのに自前主義に方針転換されて悔しい思いをしたので、いつか一度でもソニーを打ち負かしたかった」
―東芝は2008年にDVDの後継と位置づけて注力していたHD-DVD事業から撤退しました。今度はソニーなどの主導したBDに規格争いで敗北しました。
「BDの方が容量は大きかったが、負けた原因は詳しく覚えていない。ソニーも少しは本気になったのだろう。ソニーの社長・会長を務めた大賀典雄さんが『2連敗はあり得ない』と発破をかけていたとか。(ワーナーがBDへの一本化を表明したことで勝敗は決したが)ワーナーはDVDの時も本当は東芝よりソニーと組みたかったはずだ。その時は東芝も一生懸命で、ソニーは目が覚めていなかったからうまいこといったが、なかなか2連勝は難しい」
―日本メーカーが主人公だったDVD規格化などの熱い話をうかがうと、その後に韓国・中国勢に負け続けた日本の家電産業の凋落ぶりが際立ちます。
「ICで韓国・サムスン電子に負けたことが大きい。ICは全ての基幹部品だから。(半導体の集積密度が3年で4倍になるというムーアの法則により)ICの製造設備は3年で設備を更新しないといけないから、早く減価償却を終えないとコスト的に勝てなくなる。ただ、産業を育てる気のない財務省などは3年での償却を認めなかった。5年だと商品の代が替わって償却だけ残ってしまう。それがサムスンに負けた原因だ」
―今の東芝にどんなエールを送りますか。
「良いモノを出す気概がないとダメだ。やはり気持ちの問題だ。東芝は大きい会社なので、ICがあろうがなかろうが、それでへこむわけではない」
【略歴】
68年(昭43)東北大修士課程電気通信専攻終了、同年東芝に入社してカラーテレビ用LSIなどの開発を担当。77-79年米スタンフォード大学に留学。光ディスクやマイクロプロセッサー、SRAMなどの開発に従事したあと、93年からDVD開発に専念。05年に東芝を退社。現在は国立科学博物館・産業技術史資料情報センターの主任調査員を務める。宮城県出身、77歳。