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【作家・片山恭一】死者と生者をつなぐ宮崎の「大数珠まわし」

セカチューの作者が届ける珠玉のエッセイ

何年か前に、宮崎県の山のなかで150年もつづいている大数珠まわしを取材したことがある。正確な地名は児湯郡木城町中之又というところである。山中には四国八十八ヶ所を模して石仏が置かれている。その数は約二百体といわれ、巡礼のための道も残っている。

1858年(安政5年)、この地区で流行った疫病(コレラ)の終息を願って彫られたものだという。当時、村の多くは真言宗の檀家だった。その寺の僧が、四国から仏師を呼び寄せて石仏を彫らせ、四国八十八ヶ所を勧請したと伝えられる。かつてはお大師様が生まれた3月21日に、村の人々が総出で山道を巡礼してまわった。婦人たちはお参りに来る人たちに、団子や御供のお接待をしたものらしい。

鎮守神社で催される御大師講の大数珠まわしも、やはり疫病の終息を願って同じ時期にはじまったようだ。実際に病気が治まったことから、無病息災を祈る行事として定着したのだろう。50年ほど前までは、毎月20日の夜に十数戸の家によって回り持ちで行われていた。戸数が減って一時中断していたものを、村の人たちが年に一度の行事として復活させた。

開始の時間までに少し余裕があるので、この地区独特の風習である「精霊小屋」を見せてもらうことになった。案内された家の庭先に、小さな鳥小屋のような木箱が立ててある。箱の両側から角が生えているように、二本の竹の棒が交差して取り付けてあり、毎年8月14日の晩には、そこに松明を掲げてお盆の迎え火とする。さらに生米にキュウリを刻んで混ぜた「水米」というものを供える。これは各墓にも少量ずつ供えられ、そこに眠るご先祖を迎える。懐かしい屋敷で数日を過ごしたご先祖たちは、16日の未明の送り火によってそれぞれの墓へ帰っていく。何百年もつづいている風習だという。

神社に戻ってみると、境内に敷かれたブルーシートの上に十メートルほどもある大きな数珠がスタンバイしている。それを取り囲むように四、五十人の人が坐っている。子どもを連れた若い夫婦、赤ちゃんもいる。車椅子のおばあちゃん、足の悪いご老人は椅子に坐っている。カメラを構えた人たちもかなりいて、なかなか賑やかだ。

一つひとつの数珠はピンポン玉くらいの大きさである。桐を削って作られているらしいが、さすがに150年以上も大勢の人の手でまわしつづけられてきたせいか黒光りしている。鉦の合図とともに、いよいよ数珠まわしがはじまった。時計まわり二十一回。一周するのに、けっこう時間がかかる。

白い房の付いた大きな数珠がまわってくる。これを悪いところに当てなさい、と隣のご老人が教えてくれた。悪いところと言われると、あちこちに当てたくなる。胸に当てている人、膝に当てている人。患部にあてて病を祓う。心と身体を清める。一年間の無病息災と家内安全を願う。ついでに世界平和も祈願しよう……と現世的なご利益のことを言い出せばきりがない。

数珠をまわしているのは村の住人だけではない。近隣に暮らす人たち。かつてここに住んでいて、いまは都会に出ている人。その親類縁者。ボランティア。山村留学によって村の生活を体験した子どもたちが、結婚して自分の子をもち、家族で帰ってくることもあるという。みんなが楽しそうに歓談しながら数珠をまわす。盆や正月など、いまも残る年中行事の多くが、亡くなった人も含めて人と人がつながるためのものなのかもしれない。

いまここに暮らす人、隣人たち、かつてこの土地に暮らした人、その子や孫たちが、数珠をまわすことでつながっていく。つながりを確かめ、そのつながりを未来に託していく。いま生きている者が、かつてここで暮らした人、この土地で生き、子々孫々の無病息災を祈り、「いま」という時間を受け渡してきてくれた人たちとつながる。その目に見えないつながりを生きる。

川の音が聞こえる。頭上から木の葉が舞い落ちてくる。遠い昔の死者たちも集まっているのかもしれない。158年前に最初の大数珠まわしをはじめた人たちが、ともに今日の一日を楽しんでいる。たしかに起源は疫病の終息である。それが無病息災の祈願として地域に根付き、150年以上もつづいてきた。高齢化で伝統的な行事をどうやって守っていくかは、地方の多くの町や村が抱える問題だ。この中之又の大数珠まわしも、住民の数が減って途絶えた時期があった。しかし新しいコミュニティの場として、いままた復活している。

独居老人の死がメディアで報じられるようになったのは、1970年代のはじめごろからだろうか。いまでは「孤独死」が、言葉としてすっかり定着してしまった。しかし「孤独死」という言い方は、目に見えるかたちだけにとらわれ過ぎているように思う。病院のベッドで医療スタッフに囲まれて迎える死が孤独でないとは言えないだろう。むしろ長く暮らした土地で、目には見えない多くの者たちとのつながりのなかで亡くなっていくことのほうが、よほど人間らしい最期かもしれない。そんなことを思いながら、小さな山間の村をあとにした。

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