鎌倉幕府を開いた源頼朝は「ヤバイ上司」だった?

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鎌倉幕府を開いた源頼朝は久安3年4月8日に生まれた。現行の太陽暦だと1147年5月16日になる。ちなみに同日生まれの有名人にはほかに、歌手のジャネット・ジャクソンやサイバーエージェント社長の藤田晋がいる。源頼朝は弟の義経に比べるとクローズアップされることが少ないが、果たして、どんな人物だったのか。資料から浮かび上がる頼朝の実像は、現代ならば、「めんどうで信用ならないヤバイ上司」だった。

冠をかぶり、ひげをたくわえた肖像画。鎌倉幕府を開いた源頼朝だと小中学校の授業で教えられた人物だが、今や教科書から姿を消しつつある。この口ひげおじさんは、現在では頼朝でなく、足利尊氏の弟の足利直義とする説が有力になっている。直義と兄・尊氏との対立は「観応の擾乱」と呼ばれる全国規模の戦乱に発展し、直義は死に追い込まれる。

実際の頼朝は我々が慣れ親しんだ肖像画に比べるとふっくらしていた可能性が高いというからかなりイメージが変わる。大河ドラマでも源頼朝役といえば、古くは頼朝を主人公に据えた『草燃える』では石坂浩二、最近の『義経』では中井貴一。全くもってふっくらしていない。

 

頼朝は幼い頃に流刑になり、そこから這い上がり、平家との争いに勝つほどなので、用心深い性格をしていた。

弟の義経との確執が決定的になった頃の話だ。行方をくらました義経を頼朝と部下達は血眼になって探していた。遠江(現在の静岡県)守の安田義定が状況報告で頼朝の元を訪れた。遠いところからご苦労と労う頼朝。「いくらでも呑んでくれ」と呑みに呑ませたところ、酩酊した義定は緊張も解けたのか、いろいろと喋り始める。そういえば、勝田三郎成長が京都から玄蕃助に任じられたらしいですよ、すごいですねと語った。これは頼朝の部下が公家から玄蕃寮というお役所の次官のポジションを得たという話だが、頼朝は全く興味を示さず、次々に話題は変わる。

義定が、そういえば鹿狩りをしましたとその鹿の皮を差し出すと、頼朝は上機嫌になり、義定も「頼朝様の私へのポイントがあがったかも」と酒がさらに進んだ。すると、頼朝が「そういえば、さっきの話なんだけど」と勝田成長の任官の話題を出し、あれこれ聞かれた義定が饒舌に知っていることを話すと、「私にことわりも無しに、公家から任官を受けるとは何考えてるんだ!」とこれまでの機嫌のよさはどこへやら。確かに勝田成長の件は、現代ならば、ある会社の部長がライバル会社の部長も兼務しているような状態。頼朝が激怒するのも仕方ないが、義定にしてみれば、仲間を売ったような形になり、「余計なこといっちゃったのかな」と後悔したとか。

頼朝は武士による政権を確立しようとしており、御家人が京都から任官されることを嫌っていたのは御家人の間でもよく知られていた。頼朝と義経の仲が険悪になったのもそもそもは義経が後白河院から任官を受けたからだ。

酒を呑ませて、適当に調子を合わせて、相手から遠慮のない話を聞き出す。かなり、せこいが、頼朝は酒席以外でも、せせこましい術をつかっていた。

現在の埼玉県東松山市に小代行平という武士がいた。行平は当時の多くの武士のように後世に教訓を書き残している。教訓と言っても、大半は自慢話であり、行平も例に漏れない。

 

あるとき、行平は頼朝が伊豆山神社参拝の護衛を務める。頼朝が神社の石橋を下りる時に、行平の肩を叩き、こう囁く。「おまえのことを気の置けない家臣だと思っているぞ」。こんなこといわれたら、誰でも感極まるだろう。行平も、あの頼朝さんに俺は信頼されていたんだぞと、この出来事を書き残したわけだが、これは額面通りに受け止められない。「おまえを信頼してるぞ」は頼朝の十八番なのだ。

平家打倒に挙兵した際には前日に参加した兵士をひとりずつ呼び、「今まで黙っていたが、お前だけを頼りにしている」と全員に語ったと言われている。思わず苦笑してしまうような人身掌握術だが、頼朝にしてみれば、不安でたまらなかったのかもしれない。

「平家打倒に挙兵」と聞くと、壮大な話に聞こえるが、歴史学者の細川重雄は挙兵の際の頼朝の行動を「山賊の殴り込み」と評している。

というのも、頼朝が平氏打倒を叫び、山木兼隆を襲撃した「山木攻め」は頼朝のバックに就いた北条氏の命運をかけた闘いといえるが、兵力はわずか30騎程度ともいわれているからだ。挙兵の前日には4人が急遽来られなくなることがわかり、頼朝は「やっぱ延期しようかな」と悩んだほどだ。

 

頼朝は14歳の初陣で敗れた平治の乱以降、20年間、伊豆に流されていた。「平家でなければ人にあらず」の時代だけに誰も頼朝には近づかなかった。結婚するも、「あんなやつに近づいたらいかん」と妻の親に強制的に別れさせられたこともある。北条政子との結婚も政子の父親は猛反対していたが、政子が押し切った格好だ。政子と一緒になったことで、北条家がバックについたが、当時の関東は京都からみれば、異国のような場所。そこでの武士などチンピラ同然だったと細川は指摘している。

 

腐っても名門出身の頼朝にしてみれば、何をしゃべっているかわからない連中を目の当たりにして、「こんな人たちで大丈夫かな・・・」と思ったはずだ。ずるい酒と思われようが酒席で情報を集め、人心掌握になりふりかまわなかったのだろう。

 

全員に「おまえだけが頼りだぞ」と声をかけるなど、今ならば、インターネット掲示板あたりで揶揄されるだろうが、情報が流通しない当時の極めて閉ざされた社会では頼朝流社交術は有効であったことがわかる。

 

会社員ならば誰もが「上司は選べない」とは口をそろえる。中には源頼朝のような信用ならない上司もいるはずだ。人事異動の直後は上司と部下はお互いを探り合う。新しい上司が頼朝タイプの可能性もあることを肝に銘じ、「今日は腹を割ってはなそう」と言われても、割りすぎてはいけない。

ちなみに、頼朝に限らず、「気を遣わずに呑め、呑め」と上司が宣言する「無礼講」の酒席は昔からあったが、「無礼講」の言葉の起源は鎌倉時代末期の後醍醐天皇時代に求められるという。寵臣の日野資朝らが「無礼講」と呼ばれる宴を催したことが、「太平記」や「花園天皇宸記」に記されている。身分や地位に関係なく集まり、男たちはざんばら髪で、僧侶も肌着姿となり、女性に薄い単衣を着せて裸に近い格好で酌をさせたという。

献杯の順序に全くこだわらず、ドンチャン騒ぎに興じた。だが、実態は、宴会を隠れ蓑にした倒幕会議で、出席者たちが腹を探り合い、後醍醐天皇が家臣の忠誠をはかるために開いていたとも。「無礼講」と言いながらハメを外せないのは、やはり今も昔も変わらないのかもしれない。

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今日生まれの有名人や起きた出来事をビジネスに役立つ視点で紹介します。不定期掲載。(栗下直也)
                            

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