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大将の首より情報を求めた天才経営者「信長」

それでも上司だと嫌かも?
  1575年(天正3)の梅雨時に起きた「長篠の戦い」。通説では、織田信長が鉄砲3000丁を用いた「三段撃ち」で攻め、戦国最強とうたわれた武田勝頼率いる騎馬軍団を壊滅させた。

 だが史実は異なるようだ。もともと織田・徳川家康連合軍は武田軍の2倍以上の兵力があった。鉄砲を警戒する武田軍にうその情報を流し、長雨でぬかるんだ狭隘(きょうあい)な地に巧妙に誘い込み、鉄砲や柵を使って馬の足を止めた。三段撃ちの連続射撃は疑問視されている。

 とはいえ、信長は天才といわれる。鉄砲や鉄甲船といった革新的な戦術を取り入れ、楽市楽座や撰銭令といった経済政策を導入した。情報の扱いにたけていたことも見逃せない。

 一説では「桶狭間の戦い」で、今川義元の首を挙げた家臣より、雨中敵本陣の場所を察知した家臣を一番手柄とした。情報を手に入れるため関所を廃し、本拠地を何度も替えた。長篠戦の結果を過剰にPRし、“天下布武”のための交渉材料に利用したと考えても不思議でない。

 イノベーションを駆使し、情報を最大限活用する手法は現代の経営に通じる。一方で革新があつれきを生むのも今と変わらない。「本能寺の変」も梅雨時。天才武将は実に雨が似合う。
日刊工業新聞2017/7/6
日刊工業新聞記者
日刊工業新聞記者
 織田信長が特に現代人に人気が高いのは、発想が極めて我々現代人に近いからだ。政治、経済、軍事いずれも合理的で、常識に縛られない姿は活字で読んでも、映像で見ても爽快だ。  戦国大名ながら戦術面だけをみれば、同時代人の武田信玄や上杉謙信らと比べて秀でていたとは思えない。ただ信玄や謙信が権威を重んじたり、本拠地から移動しないなどその発想が中世から脱却できていないのに対して、信長は超越していた。戦争が頻繁に行われる戦国時代にもかかわらず領内の道路を整備したり、貨幣経済の推進や兵農分離など、常識外の行動は数え上げればきりがない。  明智光秀のほかにも浅井長政、松永久秀、荒木村重といった身内や重臣の離反が多かったのは、彼らがおしなべて当時の常識人、知識人であり、〝暴走する非常識な上司〟についていけなくなった結果と考えれば謀反の理由も合点がいく。  昨今は企業でも政界でもパワハラやモラハラ、クラッシャー上司が話題となるが、信長はこの点でも先駆けと言えよう。天才である点は認めるが、身内や上司には御勘弁願いたい。 (日刊工業新聞北九州支局長・大神浩二)

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