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洞察・リアリティーのない記事が大量生産されるマスメディア、民主化への分水嶺に

フラクタCEO・加藤崇
洞察・リアリティーのない記事が大量生産されるマスメディア、民主化への分水嶺に

個人の発信力が強くなりメディア企業はそのバランサーとしての役割を担うようになる(安倍首相の会見)

先日、TBSのインタビュー番組『Dooo』に出演した。前後編合わせて40分のほとんどを僕が話し続けるという、異例の内容だ。僕の生い立ちやベンチャー創造の要点、日本の社会構造に対する問題提起、若者に対するメッセージなど、僕が日本人に向けて伝えたいことを十分な時間をもらい、思い切り伝えることができた。前後編ともYouTubeで無料公開されたこともあり(興味がある人は「Dooo 加藤崇」で検索してほしい)、ソーシャルメディアなどで広く拡散し、多くの視聴者の方から反響をいただいた。この放送を見た僕は、不思議といつかの感覚がよみがえるのを感じた。

2016年から3年間、日経ビジネスオンラインで『サムライ経営者アメリカを行く!』という連載を持っていた。あの時も「自分の思っていることを、自分の言葉で読者の方々に伝えることができた」と強く思った(このコンテンツは後に『クレイジーで行こう!』〈日経BP刊〉という書籍にまとめられた)。これまで取材を受けた新聞や雑誌、テレビ番組のコンテンツと比較して、この二つは圧倒的に切れ味が良く、視聴者・読者からの反応が良かった。なぜだろうか。何のことはない、要は十分な時間をもらってカメラに向けて自分で語った、もしくは自分の手で一言一句記述したコンテンツだったのだ。

もう一つ成功の要因があるとすれば、素晴らしい編集者がいたことだ。ある種の共感型編集と言ってもいいだろう。僕の思いに寄り添い、その勢いを消さないように配慮して世の中にそのコンテンツを解き放つ。その際に、マスメディアの媒体力で強く背中を押してもらったということなのだ。

こうした体験で気付いたのは、これからのメディアのあり方についてだ。ヒカキンさんに代表されるYouTuber(ユーチューバー)ブームにも見て取れることだが、多くの視聴者(情報消費者)は、リアリティーの少ないマス向け媒体のコンテンツに飽きがきている。「制作者サイドが作り込みたいと思ったストーリーの中で、出演者や取材相手の言葉を(製作者に都合良く)切り貼りして使う」という旧来型のコンテンツに、新鮮味を感じられないのだ。ありのままの真実に価値が宿る。事実は小説より奇なりだ。

これとは対照的な話を一つしよう。先日、全国紙の取材を1時間半受けた。記者がテクノロジーの最前線で起きていることを勉強せず理解していないことに落胆し、かつ最初から最後まで極端にバイアスがかかったインタビュー内容にへきえきした。明らかにテクノロジー産業やスタートアップ、日本と米国の経済活動の根本的な違いというもの、そのリアリティー(現実)を理解せず、とにかく自分が書きたいことに話を寄せていこうとする。

「仰っていることは私の発言趣旨と違います」「そうじゃないですよ」と軌道修正しても、その思い込みは止まらない。読者がこうした媒体から離れていくのも無理はない。なぜなら、その記者が現実にテクノロジー産業で起こっていること、ベンチャーの世界で起こっていることを書くのではなく、自分が書きたいことを僕の名前をテコにして書こうとしているだけだからだ。その結果、洞察のない記事、リアリティーのない記事が大量生産される(しかも読者はそれに購読料を払わされているのだ)。

マスメディアは今、大きな分水嶺(れい)の上に立たされている。ブログエンジンやYouTubeといった動画配信サイトなど、情報発信ツールは整備され、情報の「消費者」は今すぐにでも、情報の「生産者」に変わることができる。この連載「卓見異見」のように僕が記述する現場のリアリティーと、メディアそのものが共生することが、メディアが生き残る道だと思っている。個人の発信力が強くなり、メディア企業はそのバランサーとしての役割を担うようになる。テクノロジーはあらゆる物事を民主化していく。メディアもその例外ではない。

加藤崇
【略歴】かとう・たかし 早大理工卒業。米スタンフォード大元客員研究員。ヒト型ロボットベンチャーのシャフトを共同創業し、米グーグルに売却。インフラ劣化予測の人工知能(AI)ベンチャー、フラクタを米で創業。米シリコンバレー在住。
日刊工業新聞2020年3月30日

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