ゴーンを日本に連れてきた男の独白を振り返る
元日産自動車会長・社長の塙義一氏
日産自動車は22日、臨時取締役会を開き、逮捕された代表取締役会長のカルロス・ゴーン容疑者の解職を決める見込みだ。日産と仏ルノーのアライアンスはどうやって始まり、ゴーン容疑者は日本にやって来たのか。ルノー日産連合を実現し、2015年に亡くなった元日産自動車会長・社長の塙義一氏(はなわ・よしかず)は、06年に日刊工業新聞の連載で、連合実現の決断と当時のゴーン容疑者の印象について語っている。
日刊工業新聞2006年1月11日・12日・13日付「決断・そのときわたしは」より
日産自動車と仏ルノーが99年3月に発表した提携は、当時「負け組連合」と揶揄(やゆ)された。日産は本命のダイムラー・クライスラーに見捨てられた―。人々はそう思っていた。しかし、その交渉の先頭に立っていた塙氏(当時社長)は、早い段階でルノーを本命に据えていたという。いま我々は、その判断が正しかったことを知っている。両社の提携成功の要因はカルロス・ゴーン氏の活躍だけではない。日産とルノーの相性の良さの背景には、提携交渉の過程ではぐくまれた信頼関係がある。
私が社長に就任したのは96年6月です。前任の辻義文社長はバブル経済がはじけた後の大変な時期に、地道な改善で4期ぶりの営業黒字(96年3月期)までやっと持ってきた。それでもまだ安堵(あんど)できる状況ではありませんでしたが、日産の社員には危機感がなかった。これだけ大きい会社が急になくなることはないだろう、という期待がどこかにあって改革の妨げになっていました。
本当に会社がなくなる可能性もあるけれど、それを強調しすぎて社員が落ち込んでしまうのはまずい。社員には「やるぞ」という意気込みを持ってもらいたい。そこで98年春から3年間の中期経営計画では、ターゲットとして「シェア25%」という数字を掲げました。工場閉鎖と人員削減では縮小再生産になるだけです。私の課題は、開発から始まる会社のマネジメント全体をいかに変えていくかでした。
まず改革が必要だったのは関連会社とのもたれ合いです。5というプライスの部品を3で調達したいのだけれど、情にひきずられて3・5とか4になってしまう。コストだけでなく、品質面でももう一歩突っ込んだ努力が行われていませんでした。系列取引の見直しだけでなく、年功序列とか終身雇用とか、日本の高度経済成長を支えてきた仕組みを見直す作業だったとも言えるでしょう。
ところが、シェア25%だと言うと社内に「数字を出せばいいんだろう」という傾向が出てきてしまった。足元の改革を怠って、安易な策で数字を上げようとする。後に大きな問題となる米国でのリース販売拡大もその一例です。そこで改革を実行する具体的な「手だて」として「グローバル事業革新策」を98年5月20日に発表しました。
この時の施策は車種の削減、プラットフォームの集約、販売店の2チャンネル化、資産売却による有利子負債圧縮、総コストの4000億円削減―など、項目は後の日産リバイバルプランとよく似ています。
ゴーンが立派なのは、それを実行したことなのです。
ダイムラーとクライスラーの合併は、報道で知って驚きました。98年のゴールデンウイーク中でしたね。考えてもみなかった組み合わせです。このころ業界では『400万台クラブ』と言われ、それ以上の生産台数がないと生き残れないという噂(うわさ)が流れていました。日産はまさにボーダーライン。ダイムラー・クライスラーのニュースを聞いて、我々も提携相手の模索を始めます。恐らく世界中のすべての自動車メーカーがいろいろ動いていたと思いますよ。
このころからマスコミは、日産とダイムラーの包括提携の可能性を報道しはじめました。ダイムラーとは半年ほど前、97年末ごろから日産ディーゼル工業の株式を売却する交渉をしていました。しかし、これは基本的に(経営不振の)日産ディーゼルをどう立て直すかという、トラック事業の話です。日産本体がダイムラーと組む話をしたことは、当時はありませんでした。
日産本体の提携相手探しでは、こちらから声をかけた会社も、向こうからかけてきた会社も、いろいろあります。日本の自動車メーカーもアイデアとしては浮かびましたが、行動には移していません。私は米国赴任中に米国の『個の強さ』と日本の『集団の強さ』を合成して良い企業文化が生まれることを経験しました。だから日産の提携相手も文化の異なる海外メーカーがいいと思っていました。
ルノーは向こうから声をかけてきてくれた会社の一社です。まず、98年7月にルイ・シュバイツァー会長と東京で会いました。下から上がってきた話ではなく、いきなりトップ同士で話を始めています。当時私はルノーという会社をよく知らなかったのですが、この会談でとてもいい印象を受け、話を進めることになりました。ただし、ルノーはまだ提携候補のワンオブゼムです。
相手探しを続けながら、私は「合併」ではなく「対等な提携関係」が良いと考えていました。合併では両方の良さを生かすのが難しく、どちらかが引っ込む形になります。またこの時点では、双方にとって重荷になる『資本』の話はしていません。
私はもし資本関係を持つにしても、相互持ち合いのまったく対等な提携がよいと考えていました。しかし98年の末に向けて、日産が置かれた状況は大きく変わっていきます。
98年11月、ルノーの副社長だったカルロス・ゴーンが東京に来て、日産の副社長陣を前に200億フランのコスト削減の実績を説明しました。私はこの会議に出席していませんが、副社長陣はルノーとゴーンに対して非常に良い印象を持ちました。このほか両社の開発部門の会議など、提携したら実際に仕事をする者同士で話をしています。
これ以降、交渉はトップ会談から幹部による具体的な検討に進みます。日産とルノーが目指したのは、対等で互いのアイデンティティーを大事にしつつ一体感を持った関係です。両社とも合併は考えず、といっていつでも切れる単純な提携でもない。そんな自動車業界でもあまり例のない提携関係に向け、一本調子で話が進んだのです。
ところが98年末、米国でのリース販売の損失などで日産は(財務面で)厳しい状況になりました。私はパリに飛び、両社が『対等でない出資条件』をこの時初めて要望したのです。シュバイツァーさんは、当初は含まれていなかった出資の話に、ポジティブに対応してくれました。
もう一つの問題は、(債務を抱えた)日産ディーゼル工業です。ダイムラーと進めていた日産ディーゼル株式の売却の交渉と、その後話が出た日産との提携交渉は、99年3月11日に彼らが交渉中止の短いステートメントを発表します。この時もルノーはトラック事業には興味がないのに「半分持ちましょう」と言ってくれたのです。こうして3月13日、パリ・シャルルドゴール空港隣のシェラトンホテルで、日産とルノーは提携に最終合意しました。
カルロス・ゴーンが優秀なことはシュバイツァーさんから聞いていましたが、じっくり話したのは彼が99年4月に日産に着任してからです。これは大した男だと思ったし、話をしていると私がかつて考えた改革策と一致する部分が多い。そこで最高執行責任者(COO)のポストを作って「社内のことは一切任せる」と言いました。彼が改革を「実行」したのは本当に立派です。
ルノーは日産との『対等な関係』を尊重してくれました。ルノーから来た役員は、日産の社員のたどたどしい英語でも理解しようと努力し、指示を出すときには相手が分かるまで何度でも話していました。日産とルノーはコミュニケーションをとる努力を誠実に実行しました。そのうえで互いのアイデンティティーを尊重したことが、提携成功の大きな要因です。
「合併」ではなく「対等な提携関係」を
日刊工業新聞2006年1月11日・12日・13日付「決断・そのときわたしは」より
日産自動車と仏ルノーが99年3月に発表した提携は、当時「負け組連合」と揶揄(やゆ)された。日産は本命のダイムラー・クライスラーに見捨てられた―。人々はそう思っていた。しかし、その交渉の先頭に立っていた塙氏(当時社長)は、早い段階でルノーを本命に据えていたという。いま我々は、その判断が正しかったことを知っている。両社の提携成功の要因はカルロス・ゴーン氏の活躍だけではない。日産とルノーの相性の良さの背景には、提携交渉の過程ではぐくまれた信頼関係がある。
「エピソード・日産1996」
私が社長に就任したのは96年6月です。前任の辻義文社長はバブル経済がはじけた後の大変な時期に、地道な改善で4期ぶりの営業黒字(96年3月期)までやっと持ってきた。それでもまだ安堵(あんど)できる状況ではありませんでしたが、日産の社員には危機感がなかった。これだけ大きい会社が急になくなることはないだろう、という期待がどこかにあって改革の妨げになっていました。
本当に会社がなくなる可能性もあるけれど、それを強調しすぎて社員が落ち込んでしまうのはまずい。社員には「やるぞ」という意気込みを持ってもらいたい。そこで98年春から3年間の中期経営計画では、ターゲットとして「シェア25%」という数字を掲げました。工場閉鎖と人員削減では縮小再生産になるだけです。私の課題は、開発から始まる会社のマネジメント全体をいかに変えていくかでした。
まず改革が必要だったのは関連会社とのもたれ合いです。5というプライスの部品を3で調達したいのだけれど、情にひきずられて3・5とか4になってしまう。コストだけでなく、品質面でももう一歩突っ込んだ努力が行われていませんでした。系列取引の見直しだけでなく、年功序列とか終身雇用とか、日本の高度経済成長を支えてきた仕組みを見直す作業だったとも言えるでしょう。
ところが、シェア25%だと言うと社内に「数字を出せばいいんだろう」という傾向が出てきてしまった。足元の改革を怠って、安易な策で数字を上げようとする。後に大きな問題となる米国でのリース販売拡大もその一例です。そこで改革を実行する具体的な「手だて」として「グローバル事業革新策」を98年5月20日に発表しました。
この時の施策は車種の削減、プラットフォームの集約、販売店の2チャンネル化、資産売却による有利子負債圧縮、総コストの4000億円削減―など、項目は後の日産リバイバルプランとよく似ています。
ゴーンが立派なのは、それを実行したことなのです。
「エピソード・ダイムラー&ルノー」
ダイムラーとクライスラーの合併は、報道で知って驚きました。98年のゴールデンウイーク中でしたね。考えてもみなかった組み合わせです。このころ業界では『400万台クラブ』と言われ、それ以上の生産台数がないと生き残れないという噂(うわさ)が流れていました。日産はまさにボーダーライン。ダイムラー・クライスラーのニュースを聞いて、我々も提携相手の模索を始めます。恐らく世界中のすべての自動車メーカーがいろいろ動いていたと思いますよ。
このころからマスコミは、日産とダイムラーの包括提携の可能性を報道しはじめました。ダイムラーとは半年ほど前、97年末ごろから日産ディーゼル工業の株式を売却する交渉をしていました。しかし、これは基本的に(経営不振の)日産ディーゼルをどう立て直すかという、トラック事業の話です。日産本体がダイムラーと組む話をしたことは、当時はありませんでした。
日産本体の提携相手探しでは、こちらから声をかけた会社も、向こうからかけてきた会社も、いろいろあります。日本の自動車メーカーもアイデアとしては浮かびましたが、行動には移していません。私は米国赴任中に米国の『個の強さ』と日本の『集団の強さ』を合成して良い企業文化が生まれることを経験しました。だから日産の提携相手も文化の異なる海外メーカーがいいと思っていました。
ルノーは向こうから声をかけてきてくれた会社の一社です。まず、98年7月にルイ・シュバイツァー会長と東京で会いました。下から上がってきた話ではなく、いきなりトップ同士で話を始めています。当時私はルノーという会社をよく知らなかったのですが、この会談でとてもいい印象を受け、話を進めることになりました。ただし、ルノーはまだ提携候補のワンオブゼムです。
相手探しを続けながら、私は「合併」ではなく「対等な提携関係」が良いと考えていました。合併では両方の良さを生かすのが難しく、どちらかが引っ込む形になります。またこの時点では、双方にとって重荷になる『資本』の話はしていません。
私はもし資本関係を持つにしても、相互持ち合いのまったく対等な提携がよいと考えていました。しかし98年の末に向けて、日産が置かれた状況は大きく変わっていきます。
「エピソード・ゴーン」
98年11月、ルノーの副社長だったカルロス・ゴーンが東京に来て、日産の副社長陣を前に200億フランのコスト削減の実績を説明しました。私はこの会議に出席していませんが、副社長陣はルノーとゴーンに対して非常に良い印象を持ちました。このほか両社の開発部門の会議など、提携したら実際に仕事をする者同士で話をしています。
これ以降、交渉はトップ会談から幹部による具体的な検討に進みます。日産とルノーが目指したのは、対等で互いのアイデンティティーを大事にしつつ一体感を持った関係です。両社とも合併は考えず、といっていつでも切れる単純な提携でもない。そんな自動車業界でもあまり例のない提携関係に向け、一本調子で話が進んだのです。
ところが98年末、米国でのリース販売の損失などで日産は(財務面で)厳しい状況になりました。私はパリに飛び、両社が『対等でない出資条件』をこの時初めて要望したのです。シュバイツァーさんは、当初は含まれていなかった出資の話に、ポジティブに対応してくれました。
もう一つの問題は、(債務を抱えた)日産ディーゼル工業です。ダイムラーと進めていた日産ディーゼル株式の売却の交渉と、その後話が出た日産との提携交渉は、99年3月11日に彼らが交渉中止の短いステートメントを発表します。この時もルノーはトラック事業には興味がないのに「半分持ちましょう」と言ってくれたのです。こうして3月13日、パリ・シャルルドゴール空港隣のシェラトンホテルで、日産とルノーは提携に最終合意しました。
カルロス・ゴーンが優秀なことはシュバイツァーさんから聞いていましたが、じっくり話したのは彼が99年4月に日産に着任してからです。これは大した男だと思ったし、話をしていると私がかつて考えた改革策と一致する部分が多い。そこで最高執行責任者(COO)のポストを作って「社内のことは一切任せる」と言いました。彼が改革を「実行」したのは本当に立派です。
ルノーは日産との『対等な関係』を尊重してくれました。ルノーから来た役員は、日産の社員のたどたどしい英語でも理解しようと努力し、指示を出すときには相手が分かるまで何度でも話していました。日産とルノーはコミュニケーションをとる努力を誠実に実行しました。そのうえで互いのアイデンティティーを尊重したことが、提携成功の大きな要因です。