イグ・ノーベル賞受賞の笑える研究、背景には笑えない現実があった
堀内朗氏(昭和伊南総合病院消化器病センター長)インタビュー
人を笑わせ考えさせる研究を表彰するイグ・ノーベル賞。2018年は自分のお尻も使って大腸内視鏡検査の手法を開発した昭和伊南総合病院(長野県駒ヶ根市)の堀内朗消化器病センター長が選ばれた。堀内氏は海外での評価が高く、研究で地域の病院を支えてきた。思わず笑ってしまう研究の背景には、まったく笑えない地域医療の現実がある。
-地域の中核病院で研究ができるということ自体、珍しいと思います。昭和伊南総合病院はどんな病院ですか。
「当院は30年前は若い医師が真っ先に志望する病院だった。長野県で最初に救命救急センターを開所した。救急をもつ病院は県内に三つだけだ。だが04年に新研修医制度が導入されて若い臨床医の供給が止まった。若手医師が長野県の外に流出して、医局から県内の病院に十分に若手を送り込めなくなった。当院は集約化の対象になった。当時の院長が信州大学に呼び出され、もう若手を送れないと告げられた。医師が来なくなれば病院がつぶれることを意味する」
「この動きは医療関係者は察していて、それぞれ準備をしていた。県内のライバル病院は信州大の学長を院長として招聘した。再選を確実視されていた学長が選挙に敗れ、そこに院長の席を提示した。ホテルのような病院を建てて迎えたのだ。ライバル病院は元学長という太いパイプでスムーズに医局制度の廃止を乗り切った。対して当院は病院の中で出世して院長になった人物だ。元学長との綱引きには勝てなかった。ご自身も位負けすると漏らしていた」
「当時の院長に『集約化の対象になった』と告げられ、私は院長に辞めてくれないかと迫った。心の内では『院長が病院をつぶした。責任を取って窓から飛び降りろ』と叫んでいた。このときから当院の存続をかけた戦いが始まった」
-地域の中核病院の生き残りが政治手腕で分かれたのですか。
「そこで、まず信州大から副学長経験者を院長に招聘した。05年の4月だ。ライバルの元学長と、とても仲の良い先生だ。これで産婦人科や泌尿器科などで医師の供給停止を先送りできた。私は05-07年は院長補佐として自由にやらせてもらえた。内視鏡を拡充し、ドライビングシミュレーターを買った。この3年間で研究に没頭した。08年には消化器病センターを開設する。3年間で付けた力が大きい」
「また代議士さんに危機的な状況を説明し、07年に長野県飯島町でピロリ菌の撲滅キャンペーンを行った。人口1万人の町で4000人が対象だ。すぐに米国立衛生研究所(NIH)に試験登録し、成果は研究論文にまとめて認められた。07年当時はピロリ菌除去は保険収載されていなかった。現在も成人式の町からのプレゼントとして検査料の3分の2を補助している。毎年100人が検査を受け、ピロリ菌を除菌する。10年がたち人口統計でも効果が見え始めている」
「当時、私は47-48歳。病院をつぶさせないと最も煮えたぎっていた頃だ。日中の診療を終えて、夜は研究に向かう。睡眠時間は3時間。ベッドに横になれば寝過ぎてしまうためソファで眠った。ある日、目が覚めると目が見えなかった。無理がたたり、網膜剝離になっていた。結果10日間入院し、みなに迷惑をかけてしまった」
「それでも再建には消化器の看板だけでは足りなかった。そこに山﨑恭平医師(現副院長)が来てくれた。彼は年間400例もの心臓カテーテル治療を実施した。循環器と消化器の二枚看板がそろい、これでなんとかいけると手応えができてきた」
-再建に向けかなり激しい改革がなされているように感じます。
「職員にとって厳しいものがあったと思う。人が減り、賃金カット、ボーナスも出ない。私が院内で騒いでも医師や患者が来てくれるならいい。病院がつぶれるよりはマシだと受け入れてくれたのだと思う。私自身いつまでつぶれる病院にいるのか、早くライバル病院に移らなくて良いのか、と問われていた。現在は経営が立ち直り黒字化した。新病院の建設に向けて頑張ろうと一丸となっている」
-イグ・ノーベル賞受賞した座位大腸内視鏡検査の研究は、04年に国際学会で発表し、06年に論文になりました。
「私の大腸内視鏡研究の原点だった。自分で自分に挿入できれば、大腸内視鏡検査は簡単だと人は思ってくれると単純に考えた。座った姿勢だったのはたまたまだ。米国で成果を発表したのはしっかりとした研究であれば誰でも受け入れてくれたためだ。医療を、医師が技を競うアートではなく、サイエンスとして捉えている。また患者の負担を減らし、誰でも治療を受けられるようにする研究を評価してくれた。当時の日本の学会は新しい治療法の研究に熱中しており、私が発表できるようなテーマがなかった。17年11月に初めて日本大腸検査学会に呼んでもらった。私は国内学会でデビューしてからまだ1年もたっていない」
-研究の内容は。
「私の研究で評価されたモノは大きく三つ。一つは鎮静剤の『プロポフォール』を使っておなかで内視鏡が動く気持ち悪さを抑える研究だ。内視鏡が挿入しやすくなり、検査の完遂率が向上した。日本のガイドラインでは鎮静剤は推奨されていない。内視鏡医は腕を磨けということだ。米国では医師の腕に依存せずに、多くの患者が負担を少なく検査を受けられる手法が評価される。そして鎮静剤を使うと帰り道に自動車を運転できるように戻るまで時間がかかる。鎮静剤と運転能力をドライビングシミュレーターで検証した。できるだけ患者負担が小さく、かつ日帰りが可能な条件を探した」
「二つ目が内視鏡の先に透明なキャップを付けるという研究だ。検査では大腸のひだに隠れたポリープを探す。キャップでひだを倒すことでポリープが見つかりやすくなった。三つ目はコールド・スネア・ポリテクトミーという手技の有用性を証明した研究だ。当時、米国では内視鏡検査と同時にポリープをすべて取ってしまう処置が一般的になっていた。50歳で大腸内視鏡検査をすると3割でポリープが見つかる。これをすべて取ると大腸がんが7-9割、死亡率が半分に減るという論文が発表され注目されていた。そのため小さなポリープもすべて取ろうという治療方針になる。この手技をポリテクトミーという。通常はスネアという特殊ワイヤをポリープの根元に引っかけ、高周波電流を流して焼き切る。コールドはスネアで切除する。焼き切らないため、冷たいという意味でコールドが名前についている」
-有用性とは。
「コールドの方が出血リスクが低いことを証明した。抗凝固剤のワーファリンを飲んでいる患者でもコールド・スネア・ポリテクトミーなら出血しないことを示した。ワーファリンは血液が固まるのを防ぎ、血栓予防のために処方される。血が固まらないということは出血リスクが非常に高い。そんな患者でも出血がないと示したことで脚光を浴びた。空港でロイターに取材を受けたほどだ」
「当時の日本の医学界は内視鏡の挿入法に悩んでいた。米国は挿入法は解決してポリープの全摘も決まっていた。関心は手技の確実性や安全性にシフトしていた。ポリープを焼き切ると、ポリープのできる粘膜の下層まで傷がつく。1-2日たってから出血し、貧血などを起こすことがある。検査処置を受けて家に帰った後の出血は厄介だ。米国は日帰り検査が多く、出血リスクと有用性の証明は高く評価された」
-国内での評価は伴わなかったのですか。
「国内のガイドラインに反していたためだ。鎮静剤は非推奨で、ポリープも5ミリメートル以下は取らなくていいとなっている。ガイドラインにそわない研究に発表枠がなければ学会からは呼ばれない。(医師になった)息子からもそんな研究が許されるのかと問われてきた。確かにワーファリン患者の研究は多くの医師は出血リスクを心配してできないだろう。治療の有用性を証明し、研究は国際的に評価されたと応えてきた」
-若手医師にとって地域の病院でも研究ができるという事実は希望になると思います。
「医学研究を通して病院の特色を示して、若手に選ばれる病院として生き残ることは可能だと思う。実際、私は研究で有名になって若手を集めることが、研究を支えてくれた同僚たちからの宿題だった。くしくもイグ・ノーベル賞で注目を集めた。この宿題にようやく応えられると思っている。一方で、研究が世界に認められるかどうかは簡単ではない。一つの医学論文を書くのに症例が100は必要になる。100症例を集めるには年間数百の症例が必要になる。言い換えると治療でも検査でもこの規模のあるテーマなら研究になる」
「そして研究の良しあしは試験計画でほぼ決まる。論文のストーリーではない。しっかりと統計的に有意であることを示すには、試験の計画段階で練り挙げる必要がある。若手には医学統計をしっかり教えないといけない」
-医学統計家は人不足です。地域の病院でも学べるでしょうか。
「私は信州大の薬理学教室で8年間学んだ。ただ試験計画のデザインは試行錯誤してきた。私のようなものがアドバイスすることはできる。当院では自治医科大などの若手を受け入れようと準備している。自治医科大の若手は優秀で、9年間地域で働くことを義務づけられている。当院のような〝田舎〟の病院でも診療と研究を両立できると知ってもらえれば選択肢になるだろう。日本全体としては週4日間病院で働けば1日は大学に戻って学ぶ機会があるといい。昔はできたことだ。卒業した専門科に戻っても良いし、公衆衛生や薬理を勉強し直してもいい。研究の試験計画について幅広く意見をもらえる。望む人は増えている」
-日帰り検査需要と鎮静剤のように地域の病院で地域に根ざした研究はできますか。
「被試験者数の制限はある。興味に任せて好きな研究をしていてはモノにならない。だが本当に必要とされている課題は悩んでいる人の数も多い。まず患者さんにとって何が大切なのか掘り下げることだ。人間は慣性に流されやすい。医師になり、患者さんに向き合って診療する中で、いまの手法を否定することは勇気が要る。それでも本質的な問題は潜在的な患者数も多い。そうしたテーマを探していくことだ」
(聞き手・小寺貴之)
-地域の中核病院で研究ができるということ自体、珍しいと思います。昭和伊南総合病院はどんな病院ですか。
「当院は30年前は若い医師が真っ先に志望する病院だった。長野県で最初に救命救急センターを開所した。救急をもつ病院は県内に三つだけだ。だが04年に新研修医制度が導入されて若い臨床医の供給が止まった。若手医師が長野県の外に流出して、医局から県内の病院に十分に若手を送り込めなくなった。当院は集約化の対象になった。当時の院長が信州大学に呼び出され、もう若手を送れないと告げられた。医師が来なくなれば病院がつぶれることを意味する」
「この動きは医療関係者は察していて、それぞれ準備をしていた。県内のライバル病院は信州大の学長を院長として招聘した。再選を確実視されていた学長が選挙に敗れ、そこに院長の席を提示した。ホテルのような病院を建てて迎えたのだ。ライバル病院は元学長という太いパイプでスムーズに医局制度の廃止を乗り切った。対して当院は病院の中で出世して院長になった人物だ。元学長との綱引きには勝てなかった。ご自身も位負けすると漏らしていた」
「当時の院長に『集約化の対象になった』と告げられ、私は院長に辞めてくれないかと迫った。心の内では『院長が病院をつぶした。責任を取って窓から飛び降りろ』と叫んでいた。このときから当院の存続をかけた戦いが始まった」
【解説】医師は総合病院で修行し、独立して地域で診療所を開くことが多い。若手の供給が止まると総合病院は医師の数を維持できなくなる。医師の数が患者の診療数を左右するため、医師の数が減ると収入が減り、救急などの採算性の低い部門の維持が難しくなる課題があった。当時、昭和伊南総合病院は06年に4億円、07年に7億円、08年に11億円を超える経常損失を出した。09年に経営改革計画を策定し、経営再建を進めてきた。
-地域の中核病院の生き残りが政治手腕で分かれたのですか。
「そこで、まず信州大から副学長経験者を院長に招聘した。05年の4月だ。ライバルの元学長と、とても仲の良い先生だ。これで産婦人科や泌尿器科などで医師の供給停止を先送りできた。私は05-07年は院長補佐として自由にやらせてもらえた。内視鏡を拡充し、ドライビングシミュレーターを買った。この3年間で研究に没頭した。08年には消化器病センターを開設する。3年間で付けた力が大きい」
【解説】堀内氏は日帰りでの内視鏡検査を確立した。朝食を食べずに朝10時までに来院すれば、予約なしで内視鏡検査を受けられる。胃がんや大腸がんの予防のために、県外から来院する患者がいるなど、患者数が増加した。特徴は内視鏡検査に鎮静剤を使いつつ、短時間で覚醒度を回復させる点だ。鎮静剤を使うことで患者のおえつや不快感を抑え、消化管を丁寧に観察して、そのまま処置できる。同時に、鉄道など公共交通機関が乏しい地域では、自分で車を運転して帰れることが受診の必須条件になる。短時間で回復する鎮静剤を少量利用した。通常、完全覚醒まで3-4時間かかるが、1時間で回復する処方を確立した。この研究で運転能力の検証にドライビングシミュレーターを採用。04年から15万例以上を検査し、安全に帰宅させている。
「また代議士さんに危機的な状況を説明し、07年に長野県飯島町でピロリ菌の撲滅キャンペーンを行った。人口1万人の町で4000人が対象だ。すぐに米国立衛生研究所(NIH)に試験登録し、成果は研究論文にまとめて認められた。07年当時はピロリ菌除去は保険収載されていなかった。現在も成人式の町からのプレゼントとして検査料の3分の2を補助している。毎年100人が検査を受け、ピロリ菌を除菌する。10年がたち人口統計でも効果が見え始めている」
「当時、私は47-48歳。病院をつぶさせないと最も煮えたぎっていた頃だ。日中の診療を終えて、夜は研究に向かう。睡眠時間は3時間。ベッドに横になれば寝過ぎてしまうためソファで眠った。ある日、目が覚めると目が見えなかった。無理がたたり、網膜剝離になっていた。結果10日間入院し、みなに迷惑をかけてしまった」
「それでも再建には消化器の看板だけでは足りなかった。そこに山﨑恭平医師(現副院長)が来てくれた。彼は年間400例もの心臓カテーテル治療を実施した。循環器と消化器の二枚看板がそろい、これでなんとかいけると手応えができてきた」
-再建に向けかなり激しい改革がなされているように感じます。
「職員にとって厳しいものがあったと思う。人が減り、賃金カット、ボーナスも出ない。私が院内で騒いでも医師や患者が来てくれるならいい。病院がつぶれるよりはマシだと受け入れてくれたのだと思う。私自身いつまでつぶれる病院にいるのか、早くライバル病院に移らなくて良いのか、と問われていた。現在は経営が立ち直り黒字化した。新病院の建設に向けて頑張ろうと一丸となっている」
-イグ・ノーベル賞受賞した座位大腸内視鏡検査の研究は、04年に国際学会で発表し、06年に論文になりました。
「私の大腸内視鏡研究の原点だった。自分で自分に挿入できれば、大腸内視鏡検査は簡単だと人は思ってくれると単純に考えた。座った姿勢だったのはたまたまだ。米国で成果を発表したのはしっかりとした研究であれば誰でも受け入れてくれたためだ。医療を、医師が技を競うアートではなく、サイエンスとして捉えている。また患者の負担を減らし、誰でも治療を受けられるようにする研究を評価してくれた。当時の日本の学会は新しい治療法の研究に熱中しており、私が発表できるようなテーマがなかった。17年11月に初めて日本大腸検査学会に呼んでもらった。私は国内学会でデビューしてからまだ1年もたっていない」
-研究の内容は。
「私の研究で評価されたモノは大きく三つ。一つは鎮静剤の『プロポフォール』を使っておなかで内視鏡が動く気持ち悪さを抑える研究だ。内視鏡が挿入しやすくなり、検査の完遂率が向上した。日本のガイドラインでは鎮静剤は推奨されていない。内視鏡医は腕を磨けということだ。米国では医師の腕に依存せずに、多くの患者が負担を少なく検査を受けられる手法が評価される。そして鎮静剤を使うと帰り道に自動車を運転できるように戻るまで時間がかかる。鎮静剤と運転能力をドライビングシミュレーターで検証した。できるだけ患者負担が小さく、かつ日帰りが可能な条件を探した」
「二つ目が内視鏡の先に透明なキャップを付けるという研究だ。検査では大腸のひだに隠れたポリープを探す。キャップでひだを倒すことでポリープが見つかりやすくなった。三つ目はコールド・スネア・ポリテクトミーという手技の有用性を証明した研究だ。当時、米国では内視鏡検査と同時にポリープをすべて取ってしまう処置が一般的になっていた。50歳で大腸内視鏡検査をすると3割でポリープが見つかる。これをすべて取ると大腸がんが7-9割、死亡率が半分に減るという論文が発表され注目されていた。そのため小さなポリープもすべて取ろうという治療方針になる。この手技をポリテクトミーという。通常はスネアという特殊ワイヤをポリープの根元に引っかけ、高周波電流を流して焼き切る。コールドはスネアで切除する。焼き切らないため、冷たいという意味でコールドが名前についている」
-有用性とは。
「コールドの方が出血リスクが低いことを証明した。抗凝固剤のワーファリンを飲んでいる患者でもコールド・スネア・ポリテクトミーなら出血しないことを示した。ワーファリンは血液が固まるのを防ぎ、血栓予防のために処方される。血が固まらないということは出血リスクが非常に高い。そんな患者でも出血がないと示したことで脚光を浴びた。空港でロイターに取材を受けたほどだ」
「当時の日本の医学界は内視鏡の挿入法に悩んでいた。米国は挿入法は解決してポリープの全摘も決まっていた。関心は手技の確実性や安全性にシフトしていた。ポリープを焼き切ると、ポリープのできる粘膜の下層まで傷がつく。1-2日たってから出血し、貧血などを起こすことがある。検査処置を受けて家に帰った後の出血は厄介だ。米国は日帰り検査が多く、出血リスクと有用性の証明は高く評価された」
-国内での評価は伴わなかったのですか。
「国内のガイドラインに反していたためだ。鎮静剤は非推奨で、ポリープも5ミリメートル以下は取らなくていいとなっている。ガイドラインにそわない研究に発表枠がなければ学会からは呼ばれない。(医師になった)息子からもそんな研究が許されるのかと問われてきた。確かにワーファリン患者の研究は多くの医師は出血リスクを心配してできないだろう。治療の有用性を証明し、研究は国際的に評価されたと応えてきた」
-若手医師にとって地域の病院でも研究ができるという事実は希望になると思います。
「医学研究を通して病院の特色を示して、若手に選ばれる病院として生き残ることは可能だと思う。実際、私は研究で有名になって若手を集めることが、研究を支えてくれた同僚たちからの宿題だった。くしくもイグ・ノーベル賞で注目を集めた。この宿題にようやく応えられると思っている。一方で、研究が世界に認められるかどうかは簡単ではない。一つの医学論文を書くのに症例が100は必要になる。100症例を集めるには年間数百の症例が必要になる。言い換えると治療でも検査でもこの規模のあるテーマなら研究になる」
「そして研究の良しあしは試験計画でほぼ決まる。論文のストーリーではない。しっかりと統計的に有意であることを示すには、試験の計画段階で練り挙げる必要がある。若手には医学統計をしっかり教えないといけない」
【解説】13年の高血圧症治療薬ディオバンに関係した利益相反問題で、医学統計の重要性が認識された。急きょ大学病院をもつ国立大を中心に統計の講座を設置している。そのため統計家不足が課題になっている。
-医学統計家は人不足です。地域の病院でも学べるでしょうか。
「私は信州大の薬理学教室で8年間学んだ。ただ試験計画のデザインは試行錯誤してきた。私のようなものがアドバイスすることはできる。当院では自治医科大などの若手を受け入れようと準備している。自治医科大の若手は優秀で、9年間地域で働くことを義務づけられている。当院のような〝田舎〟の病院でも診療と研究を両立できると知ってもらえれば選択肢になるだろう。日本全体としては週4日間病院で働けば1日は大学に戻って学ぶ機会があるといい。昔はできたことだ。卒業した専門科に戻っても良いし、公衆衛生や薬理を勉強し直してもいい。研究の試験計画について幅広く意見をもらえる。望む人は増えている」
【解説】米国や中国では巨大な病院で診療と研究が一体で進む。日本は大学病院であっても全国に分散しており、症例数が限られる。試験規模で競争するのは難しい状況にある。反対に地域医療の質が高く、地域医療と研究の融合が日本の強みになるかもしれないと期待されている。
-日帰り検査需要と鎮静剤のように地域の病院で地域に根ざした研究はできますか。
「被試験者数の制限はある。興味に任せて好きな研究をしていてはモノにならない。だが本当に必要とされている課題は悩んでいる人の数も多い。まず患者さんにとって何が大切なのか掘り下げることだ。人間は慣性に流されやすい。医師になり、患者さんに向き合って診療する中で、いまの手法を否定することは勇気が要る。それでも本質的な問題は潜在的な患者数も多い。そうしたテーマを探していくことだ」
(聞き手・小寺貴之)
日刊工業新聞2018年10月15日に加筆