日米イノベーション環境の差が鮮明、「量子研究」国家プロで追う日本の勝算
量子コンピューター研究を舞台に日米のイノベーション環境の差が鮮明になっている。米国では基礎研究にリスクマネーが投じられる。量子研究者は投資家や株式市場から数百億円規模の資金を集める。このベンチマークとして量子ビットの数を競う。日本は国の研究プロジェクトとして追いかける。国として開発構想を示した後に量子ビット数の競争に巻き込まれた形だ。目標はビット数より本質的な誤り耐性量子コンピューターだ。着実に基礎研究を進めるが、開発段階で投資家がついてくるかが課題になる。(小寺貴之)
量子ビット争いに困惑
「米IBMが2025年に4000量子ビットの目標を掲げてから日本は大丈夫なのかと何度も問われてきた。量子ビットの数は計算能力を表すベンチマークではない」と大阪大学の北川勝浩教授はため息をつく。日本の量子技術のロードマップでは25年は100個程度の量子ビットを目標に据えている。
足元では理化学研究所が超電導方式の64量子ビットの国産初号機を開発中で22年度内に公開する予定だ。すでに理研開発の16量子ビットの計算機が動いており大学で古典計算機とのシステム化が研究されている。量子ビットの数だけを見ると日本は最先端から遅れているように見える。
だが、この”量子ビット”はくせ者だ。米IBMの4000量子ビットや理研の64量子ビットは、量子もつれを起こした物理的な量子ビット「物理量子ビット」の数を表す。物理量子ビットはエラーを起こすため、すべてを量子計算に利用できるわけではない。物理量子ビットを組み合わせて誤り訂正機能付きの「論理量子ビット」を作る。それでもエラーがなくならないため、さらに論理量子ビットを組み合わせてエラーが無視できるほど少ない誤り耐性型の量子コンピューターを作る。これでようやく現行のコンピューターのように計算ミスをしない計算機になる。
物理量子ビットの数はそのまま計算能力を表さない。量子ビットのエラー率や誤り訂正技術の巧拙で実際の計算能力は大きく変わる。理研の五神真理事長は「いまは量子ビットの数を競うよりも、自由に研究できる実機を持つことが重要だ」と強調する。
北川教授は「量子ボリュームなど、さまざまなベンチマークが提案されているが、最も分かりやすい量子ビットの数が一人歩きしている」と指摘する。これはベンチマークが資金集めに直結するためだ。米国では量子ベンチャーが特別買収目的会社(SPAC)を利用して数百億円を資金調達する。日本は国としてロードマップを作り、政策資源を投じて研究者たちが追いかける。
ベンチマーク競争に揉まれるため、資金の割にノイズの多い研究環境になっている。
複数方式で開発加速
日本では科学技術振興機構の「光・量子飛躍フラッグシッププログラム」(Q―LEAP)と内閣府のムーンショット型研究開発事業、戦略的イノベーション創造プログラム(第3期SIP)で量子計算機の大型プロジェクトが走る。理研の国産初号機はQ―LEAPで開発され、阪大藤井啓祐教授らの量子ソフトウエアと組み合わされる予定だ。
北川教授はムーンショットのプログラムディレクターを務め、超電導やイオントラップ、半導体、中性原子など5方式のハードウエアを開発する。7月末に新たにプロジェクトが五つ追加され、7プロジェクトから12プロジェクトに増えた。
例えば理研の樽茶清悟グループディレクターはシリコン半導体方式、早稲田大学の青木隆朗教授はナノファイバー型の中性原子方式、分子科学研究所の大森賢治教授は2次元アレイ型の中性原子方式で量子計算機を開発する。いずれも量子ビットの数を拡張しやすい方式だ。北川教授は「1万量子ビットに拡張可能な物理系を選んだ」と説明する。量子ビットの数というベンチマークに寄り添いつつ、独自方式を選んでいる。
分子研の大森教授はすでに800個の原子を並べることに成功している。これは世界最多だ。また二つの量子ビットで制御Zゲートを作ることに成功した。制御Zは他のゲートの基礎となる。制御Zと1量子ビットゲートと組み合わせることで制御NOTゲートを作れ、制御NOT三つでSWAPゲートを作れる。制御Zは大きな一歩だった。大森教授は「10万量子ビットを作るにはレーザーの進歩が必要。企業が参入してくれるかどうかがカギになる」と説明する。
システム拡張 性能向上
早大の青木教授は光ファイバーを直径数百ナノメートル(ナノは10億分の1)まで細く伸ばしたナノファイバーを利用する。ナノファイバー上に原子をトラップし、ナノファイバーを伝う光で原子同士を量子もつれ状態にして計算する。
ナノファイバー型はナノファイバー同士を光で接続できる。量子ビットが並ぶユニットをつないで拡張しやすい。青木教授は「数十キロメートル離れたユニットを接続できる」と説明する。超電導方式では冷凍機の中に収まる量子系のサイズがネックになってきた。ナノファイバー型は拡張性を担保し、分散型の量子コンピューターネットワークになる。
量子コンピューターは各方式で革新が起きている。これらをどう組み合わせてシステムを拡張し、エラーを抑えて計算性能を高めるのかが重要だ。北川教授は「先行する超電導も変わっていく。将来は複数の方式を組み合わせるヘテロ(異なる)なシステムになる可能性も高い」と指摘する。ムーンショットではヘテロ量子コンピューティングも視野に入れて現時点で有望な方式はすべて押さえた。
設計概念・資金が課題
問題は計算機のアーキテクチャー(設計概念)をどう組むかだ。各方式が切磋琢磨し、技術的な飛躍が控える状況で全体のシステムを設計しなければならない。理研は23年度から量子古典ハイブリッドコンピューティングの基盤整備事業を始める。ここでは量子計算機の整備と並行して量子古典ハイブリッド計算のアルゴリズムを開発する。ソフトウエアで量子計算のエラーに対応できれば、ハードウエアの選択肢が増える。複数の方式を開発しながら、その時々で最良の組み合わせを選べるようになる。
そしてベンチャー投資など、開発段階での資金の問題がある。北川教授は「ムーンショットでは複数のチームが起業予定だ」と説明する。早大の青木教授はナノファイバー・クオンタム・テクノロジーズ(東京都新宿区)を立ち上げた。同社で資金調達を進め、人材を集めて開発を加速する。青木教授は「研究者の有望なキャリアとしてベンチャーがある環境を作りたい」という。
海外では投資家が量子人材を抱え、投資循環の土台になっている。量子コンピューターはコンピューターの再発明にあたる。巨大ITがなしたように勝者独占も狙える。投資がついてくるか注目される。