METI
ラムネ卸で創業、日本の食文化に欠かせない下町企業の「不易流行」
丸源飲料工業、変わらぬ「食を楽しむ」
浅草にほど近く、下町情緒あふれた町並みを維持する一方で、東京スカイツリーの開業で都会的側面も併せ持つこととなった東京都墨田区。観光都市として進化を遂げる地域の一角で、1世紀以上にわたり、陰ながら日本の食文化を支えている企業がある。ラムネ卸業者から始まった丸源飲料工業である。
デザート用の食材を扱う同社は、ミルクシェイクやフルーツトッピング、チョコレートドリンクベースやフローズンスムージーなど、食文化の流行を海外からいち早く取り入れ、国内の「豊かで楽しい食文化の創造」に貢献してきた。
創業は1916年。ラムネの卸売からスタートし、その後、自社での製造販売に乗り出すなど国内の清涼飲料業界の黎明期を築いてきた。
東京大空襲で本社工場があった墨田区は大きな戦禍に見舞われ、社屋は全焼するも終戦2年後の47年には、「少しでも戦争で疲れた人たちの気持ちを和らげることができるように」と、地場のラムネ事業者としてオリジナル製品「トーキョーサイダー」を発売。映画館や遊園地など娯楽施設に販売し、人々の心を癒やしながら、食の楽しさを伝えてきた。
1960年代にかけ、外資系清涼飲料メーカーがルートセールスを開始したことで地場の飲料メーカーは厳しい局面に立たされた。
さらにファミリーレストランなどの外資系外食産業も台頭。当時はそれらの店舗で使われる食材もすべて輸入で賄われていたことから、原産国の米国から日本国内で生産する拠点を求められ、同社は74年に日本フードプロデューサーズ(現丸源エフピージェー)を設立。同社を通して海外から直接食材を輸入し、日本で食材の加工、製造販売まで担う経営体制を構築した。
丸源飲料工業の冷凍フルーツやシロップ、果汁飲料などの独自製品ブランド「ハーダース」を中心に、ほとんどの外食チェーン店の1号店に参入。今では外食・食品産業になくてはならない企業となっている裏には、こうした歴史的な経緯がある。
阿部貴明社長は他社との差別化の一つに「自ら海外へ行き、新しいモノを見つけ、日本へ取り入れる姿勢」をあげる。丸源エフピージェーを通して世界中の展示会やサプライヤーのネットワークを通して、国内の最先端の食文化を普及させる。
例えばマンゴーは今でこそフルーツの一種として受け入れられているが、90年代半ばの業界には「魚臭い」と到底受け入れられるものではなかった。
そんな中でも同社は自社の感性を信じ、レストランチェーンなどに提案を続けた先進的な経営姿勢を貫いた。これがマンゴーが国内へ普及するきっかけのひとつともなっている。
市場に参入する際に心がけるのは、市場が会社の規模に適度なサイズであること。思わぬヒット商品を生み出すこともあるが、市場が広がり大手が参入すれば、収益悪化のリスクもつきまとう。それだけに同社は、市場が飽和する前に撤退し、常に新しいものを開拓する。こうした堅実な経営姿勢と挑戦意欲の双方が、100年以上にわたる企業存続の根底にある。
今や東京スカイツリーは同社のある墨田区の象徴ともいえる。そのスカイツリーに併設する商業施設「東京ソラマチ」の中に、同社の“パイロットショップ”と位置づける「AZUMACHO CAFE~トーキョーサイダー倶楽部~」を開設した。
1989年に販売休止した「トーキョーサイダー」の復刻や新メニューなどを販売することで、BツーB(企業間)の本業では接することのない消費者との接点をもたらし、ニーズの把握の原動力となっている。地元企業とのコラボレーションなど、地元製品の発信の場でもある。
阿部社長は現在東京商工会議所墨田支部の会長を務め、同時に2017年まで同区観光協会の理事長も務めた経験を持つ。同区内町工場のオープンファクトリーイベント「スミファ」の開催など、「新しいものを作り出すのではなく、今まであるものに誇りを持てばいい」と観光資源を掘り起こし、磨き上げる方針は、阿部社長が力説してきた考えでもある。今後、大学の新設などでさらなる変化が期待される同区。観光と産業の融合や次世代の教育など、地域の発展にも貢献することが期待される。
最近開発したのはピンクやエメラルドグリーンの華やかな色合いのゼリー「モナジュエル」。カクテルやリキュールをイメージし、ドリンクやデザートメニューなどに使うことで、若い人たちの間で需要が高い「インスタ映え」を狙った製品だ。味よりも場や空間の演出が重視される食文化の変化も敏感に捉えながら、製品の開発に素早く落とし込む。
華やかな色合いのゼリー「モナジュエル」。
介護食や病院食をはじめ、新たな食文化によって付加価値を見いだせる潜在市場は少なくない。「当社の製品は生活必需品ではない。だからこそ『食を楽しむ』ために不可欠な企業でありたい」(阿部社長)。この先の100年がより変化の激しい時代であろうとも、創業時からの「不易流行」の精神を胸に企業成長を続ける構えだ。
自ら海外へ行き、新しいモノを見つける
デザート用の食材を扱う同社は、ミルクシェイクやフルーツトッピング、チョコレートドリンクベースやフローズンスムージーなど、食文化の流行を海外からいち早く取り入れ、国内の「豊かで楽しい食文化の創造」に貢献してきた。
創業は1916年。ラムネの卸売からスタートし、その後、自社での製造販売に乗り出すなど国内の清涼飲料業界の黎明期を築いてきた。
東京大空襲で本社工場があった墨田区は大きな戦禍に見舞われ、社屋は全焼するも終戦2年後の47年には、「少しでも戦争で疲れた人たちの気持ちを和らげることができるように」と、地場のラムネ事業者としてオリジナル製品「トーキョーサイダー」を発売。映画館や遊園地など娯楽施設に販売し、人々の心を癒やしながら、食の楽しさを伝えてきた。
1960年代にかけ、外資系清涼飲料メーカーがルートセールスを開始したことで地場の飲料メーカーは厳しい局面に立たされた。
さらにファミリーレストランなどの外資系外食産業も台頭。当時はそれらの店舗で使われる食材もすべて輸入で賄われていたことから、原産国の米国から日本国内で生産する拠点を求められ、同社は74年に日本フードプロデューサーズ(現丸源エフピージェー)を設立。同社を通して海外から直接食材を輸入し、日本で食材の加工、製造販売まで担う経営体制を構築した。
丸源飲料工業の冷凍フルーツやシロップ、果汁飲料などの独自製品ブランド「ハーダース」を中心に、ほとんどの外食チェーン店の1号店に参入。今では外食・食品産業になくてはならない企業となっている裏には、こうした歴史的な経緯がある。
阿部貴明社長は他社との差別化の一つに「自ら海外へ行き、新しいモノを見つけ、日本へ取り入れる姿勢」をあげる。丸源エフピージェーを通して世界中の展示会やサプライヤーのネットワークを通して、国内の最先端の食文化を普及させる。
例えばマンゴーは今でこそフルーツの一種として受け入れられているが、90年代半ばの業界には「魚臭い」と到底受け入れられるものではなかった。
そんな中でも同社は自社の感性を信じ、レストランチェーンなどに提案を続けた先進的な経営姿勢を貫いた。これがマンゴーが国内へ普及するきっかけのひとつともなっている。
市場に参入する際に心がけるのは、市場が会社の規模に適度なサイズであること。思わぬヒット商品を生み出すこともあるが、市場が広がり大手が参入すれば、収益悪化のリスクもつきまとう。それだけに同社は、市場が飽和する前に撤退し、常に新しいものを開拓する。こうした堅実な経営姿勢と挑戦意欲の双方が、100年以上にわたる企業存続の根底にある。
地域の発展にも貢献
今や東京スカイツリーは同社のある墨田区の象徴ともいえる。そのスカイツリーに併設する商業施設「東京ソラマチ」の中に、同社の“パイロットショップ”と位置づける「AZUMACHO CAFE~トーキョーサイダー倶楽部~」を開設した。
1989年に販売休止した「トーキョーサイダー」の復刻や新メニューなどを販売することで、BツーB(企業間)の本業では接することのない消費者との接点をもたらし、ニーズの把握の原動力となっている。地元企業とのコラボレーションなど、地元製品の発信の場でもある。
阿部社長は現在東京商工会議所墨田支部の会長を務め、同時に2017年まで同区観光協会の理事長も務めた経験を持つ。同区内町工場のオープンファクトリーイベント「スミファ」の開催など、「新しいものを作り出すのではなく、今まであるものに誇りを持てばいい」と観光資源を掘り起こし、磨き上げる方針は、阿部社長が力説してきた考えでもある。今後、大学の新設などでさらなる変化が期待される同区。観光と産業の融合や次世代の教育など、地域の発展にも貢献することが期待される。
流行に敏感「インスタ映え」も
最近開発したのはピンクやエメラルドグリーンの華やかな色合いのゼリー「モナジュエル」。カクテルやリキュールをイメージし、ドリンクやデザートメニューなどに使うことで、若い人たちの間で需要が高い「インスタ映え」を狙った製品だ。味よりも場や空間の演出が重視される食文化の変化も敏感に捉えながら、製品の開発に素早く落とし込む。
華やかな色合いのゼリー「モナジュエル」。
介護食や病院食をはじめ、新たな食文化によって付加価値を見いだせる潜在市場は少なくない。「当社の製品は生活必需品ではない。だからこそ『食を楽しむ』ために不可欠な企業でありたい」(阿部社長)。この先の100年がより変化の激しい時代であろうとも、創業時からの「不易流行」の精神を胸に企業成長を続ける構えだ。