ベスト秘書が戦国武将の中でもなぜ藤堂高虎に心を打たれたのか
文=丸山ゆかり(チュニーズ・カンパニー代表)信頼獲得術を学ぶ
私は“歴女”ではないが、戦国大名の藤堂高虎が好きである。これまで頻回に訪れた京都で、瑞龍山南禅寺の三門に登った時のこと、春の桜花はもとより、秋の紅葉、そして普段の穏やかな日々の何とも言えぬ落ち着きとたたずまいに深く心を打たれ、その生い立ちをひもといてみたことがきっかけだ。
開創来、幾度の焼失を繰り返し、現在重要文化財に指定されている三門は寛永5年(1628年)に藤堂高虎が大坂夏の陣の戦いに倒れた家来の菩提(ぼだい)を弔うために再建したものである。今も楼上の内陣では、十六羅漢に守られた釈迦坐像(しゃかざぞう)の脇に家康と並んで鎮座する藤堂高虎に会うことができる。
築城・縄張りの名手として評される高虎だが、これまで歴史小説にヒーローとして取り上げられたことは少ない。太平の江戸時代に国教化された儒教の教え以降、昭和に至るまで“忠臣は二君にまみえず”と言う風潮理解のもと、生涯に何度も主君を替えたといういわれからであろうか、なんとも残念なことだ。
時は戦国時代、15歳の初陣にて武功を上げた高虎は、浅井に始まり阿閉、磯野、織田、そして豊臣に20年間仕えた後、75歳での大往生を遂げるまでの20年間は徳川と、生涯8人を数える主君に仕えた。今で言うヘッドハントを重ねたわけである。
身長は6尺をゆうに超える大男で、戦国時代には自ら戦場に赴き武功を上げ、天下太平の江戸時代になってからは幕府の為政者・官僚としてその力量を遺憾なく発揮したスーパー武将なのである。
家康が病床で「もし天下を揺るがすような兵乱が起きた場合は、高虎を『将軍家の先陣』とせよ」と言い残したという逸話や、家康の重臣会議に外様大名で唯一出席を許されていたというエピソードは実に興味深い。あの家康から厚い信頼を受け、江戸幕府の礎を築いた人物と評される高虎に強く心引かれるのである。
私は秘書として上司からそこまでの信頼を勝ち得ていただろうか…と「あの頃」の自分を振り返ってみた。毎朝、黒塗りの社長車が会社に到着するやいなや守衛室から一報が入り、秘書室にピリッとした空気が走る。
執務室に向かう社長に爽やかに一礼し、垣間見る表情からその日のご機嫌を推察する。そして私は一気に戦闘態勢に入る。時はバブル絶頂期、大手オーナー企業3代目社長を補佐する業務がいかに多岐にわたっていたかは、ご想像の通り。「一を聞いて十を知る」どころか「十を返す」気概で、社長の期待に応えようと120%のフル回転で任務にまい進していた。
秘書の仕事が天職と言わんばかりのハリキリようだったが、そんな自分を思い出すと今では恥ずかしくもありフッと笑える気がする。
秘書の仕事を通して得難い経験を重ねたことが、その後のキャリア形成に有意義につながったことを確信する。現在、一般社団法人日本秘書協会で現役秘書のためにセミナーや交流活動を企画運営し、その講師も務めている。
あの頃、自分自身がスキルアップや交流の場をもっと有効に活用できていれば、どれほど業務や精神的な助けになっただろうという思いから、後人への機会を創出すべく社会への恩返しを実践している。毎月行う講座の中で「秘書の仕事は上司との信頼の上に成り立つもの」と口にしているが、上司から大切な何かを託される、その「何か」とはいかなるものか。
藤堂高虎は、侍としての日々の心構えから家老としての家臣へ対応など、二百余を数える人生訓を「高公遺訓集」として後世に残している。その文章は微に入り細に入り高虎が経験から手に入れた働く男のバイブルとも読み取れる。そしてまた、これが現代のビジネス社会にも当てはまるから面白い。主君へ奉公する時の心持ちについて書かれた一訓をご紹介して筆を置く。
「不断御用に達へき覚悟心かけ由断不可有事」
〈与えられた使命は覚悟をもって全うし、決して油断してはならない〉
【略歴】
丸山ゆかり(まるやま・ゆかり)86年(昭61)共立薬科大(現慶大)薬卒、同年大手製薬会社入社。01年チュニーズ・カンパニーを設立。95年日本秘書協会主催ベストセクレタリーに選出され、同協会の活動に参画。13年同協会専務理事。薬学修士、薬剤師。東京都出身。>
主君8人に仕えた生涯
開創来、幾度の焼失を繰り返し、現在重要文化財に指定されている三門は寛永5年(1628年)に藤堂高虎が大坂夏の陣の戦いに倒れた家来の菩提(ぼだい)を弔うために再建したものである。今も楼上の内陣では、十六羅漢に守られた釈迦坐像(しゃかざぞう)の脇に家康と並んで鎮座する藤堂高虎に会うことができる。
築城・縄張りの名手として評される高虎だが、これまで歴史小説にヒーローとして取り上げられたことは少ない。太平の江戸時代に国教化された儒教の教え以降、昭和に至るまで“忠臣は二君にまみえず”と言う風潮理解のもと、生涯に何度も主君を替えたといういわれからであろうか、なんとも残念なことだ。
時は戦国時代、15歳の初陣にて武功を上げた高虎は、浅井に始まり阿閉、磯野、織田、そして豊臣に20年間仕えた後、75歳での大往生を遂げるまでの20年間は徳川と、生涯8人を数える主君に仕えた。今で言うヘッドハントを重ねたわけである。
身長は6尺をゆうに超える大男で、戦国時代には自ら戦場に赴き武功を上げ、天下太平の江戸時代になってからは幕府の為政者・官僚としてその力量を遺憾なく発揮したスーパー武将なのである。
家康が病床で「もし天下を揺るがすような兵乱が起きた場合は、高虎を『将軍家の先陣』とせよ」と言い残したという逸話や、家康の重臣会議に外様大名で唯一出席を許されていたというエピソードは実に興味深い。あの家康から厚い信頼を受け、江戸幕府の礎を築いた人物と評される高虎に強く心引かれるのである。
「120%」献身の秘書時代
私は秘書として上司からそこまでの信頼を勝ち得ていただろうか…と「あの頃」の自分を振り返ってみた。毎朝、黒塗りの社長車が会社に到着するやいなや守衛室から一報が入り、秘書室にピリッとした空気が走る。
執務室に向かう社長に爽やかに一礼し、垣間見る表情からその日のご機嫌を推察する。そして私は一気に戦闘態勢に入る。時はバブル絶頂期、大手オーナー企業3代目社長を補佐する業務がいかに多岐にわたっていたかは、ご想像の通り。「一を聞いて十を知る」どころか「十を返す」気概で、社長の期待に応えようと120%のフル回転で任務にまい進していた。
秘書の仕事が天職と言わんばかりのハリキリようだったが、そんな自分を思い出すと今では恥ずかしくもありフッと笑える気がする。
秘書の仕事を通して得難い経験を重ねたことが、その後のキャリア形成に有意義につながったことを確信する。現在、一般社団法人日本秘書協会で現役秘書のためにセミナーや交流活動を企画運営し、その講師も務めている。
あの頃、自分自身がスキルアップや交流の場をもっと有効に活用できていれば、どれほど業務や精神的な助けになっただろうという思いから、後人への機会を創出すべく社会への恩返しを実践している。毎月行う講座の中で「秘書の仕事は上司との信頼の上に成り立つもの」と口にしているが、上司から大切な何かを託される、その「何か」とはいかなるものか。
遺訓集、現代にも通用。
藤堂高虎は、侍としての日々の心構えから家老としての家臣へ対応など、二百余を数える人生訓を「高公遺訓集」として後世に残している。その文章は微に入り細に入り高虎が経験から手に入れた働く男のバイブルとも読み取れる。そしてまた、これが現代のビジネス社会にも当てはまるから面白い。主君へ奉公する時の心持ちについて書かれた一訓をご紹介して筆を置く。
「不断御用に達へき覚悟心かけ由断不可有事」
〈与えられた使命は覚悟をもって全うし、決して油断してはならない〉
丸山ゆかり(まるやま・ゆかり)86年(昭61)共立薬科大(現慶大)薬卒、同年大手製薬会社入社。01年チュニーズ・カンパニーを設立。95年日本秘書協会主催ベストセクレタリーに選出され、同協会の活動に参画。13年同協会専務理事。薬学修士、薬剤師。東京都出身。>
日刊工業新聞2016年5月2日「卓見異見」