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【ノーベル賞】がんの治療薬にも…mRNAワクチンが開拓した新しい医療の可能性

【ノーベル賞】がんの治療薬にも…mRNAワクチンが開拓した新しい医療の可能性

米ペンシルベニア大のカタリン・カリコ博士(右)とドリュー・ワイスマン教授(ペンシルベニア大提供)

2023年のノーベル生理学・医学賞は、新型コロナウイルス感染症拡大の収束の切り札となった遺伝物質「メッセンジャーRNA(mRNA)」を使うワクチン開発に貢献した独ビオンテック上級副社長(米ペンシルベニア大学特任教授)のカタリン・カリコ博士らに贈られる。研究成果はワクチン開発だけでなく、がんの治療薬など新しい医療の可能性を切り開くきっかけとなった。(飯田真美子、総合1参照)

2週間で候補薬、免疫細胞に異物認識

カリコ博士らの研究成果が、実用化への突破口となったmRNAワクチンの最大の特徴は、その開発スピードだ。東京大学医科学研究所の石井健教授は「ウイルスや細菌の塩基配列さえ分かればおよそ2週間で(候補薬を)作れる」と指摘する。新型コロナウイルスの爆発的な拡大を前に、急きょ実用化された米ファイザーとビオンテック、それに米モデルナの2種類のmRNAワクチンは、現在世界中で使われている。

これらのワクチンは一般的な不活化ワクチンなどと違い、ウイルスの表面から突出した「スパイク」の設計図だけを作らせる。このスパイクを免疫細胞に異物として事前に認識させ、感染の“予行練習”をすることで感染を予防したり、重症化を防いだりする仕組みだ。

mRNAワクチンの仕組みと働き

体内に侵入した外来のmRNAは異物と見なされて免疫反応を活性化し、目的のたんぱく質を作る前に分解される。そのためmRNAはワクチンとしては使いにくいとされていた。

そこでカリコ博士らはリボ核酸(RNA)のうち、mRNAとは別の働きをするRNAは炎症反応を起こさないことに着目。05年にmRNAを構成する物質の一つを置き換えることで異物と認識されるのを回避し、炎症反応が抑えられることを発見した。mRNA技術がワクチンに使えることを広めるきっかけとなった。

mRNAを使う新型コロナワクチンは日本企業も開発し、第一三共と東大による「DS―5670」が承認された。DS―5670は、受容体結合領域(RBD)を標的にしているのが特徴。新型コロナウイルスが結合するスパイクたんぱく質の先端のRBDを標的にし、中和抗体を作る。変異株にも効果が期待できる。mRNAを使ったワクチンは各国で開発が進められる中で日本では9種類のワクチンが承認され、40種類以上が動物実験や臨床試験などの段階に進んでいる。

mRNAを使う技術は新型コロナなど感染症のワクチンだけでなく、がんや難病の治療薬、再生医療にも応用が広がり「mRNA医薬」という新しい医療の扉を開きつつある。東大の石井教授は「他の感染症を含め、幅広い疾患のワクチンとして開発が進んでおり、これから伸びる領域だ」と力説する。

未知の感染症対策の武器

人類史は感染症との戦いの歴史でもある。先史時代に初期の農耕社会が形成され人口の集中と同時に、家畜や周囲の野生動物などから細菌やウイルスがもたらされた。流行と収束を繰り返す中、無数の悲劇を生み出した。

18―19世紀にかけてジェンナーやパスツールら免疫学の巨人が登場すると、人類はワクチンによる予防接種という武器を手にした。しかし、こうした光明とは裏腹に20世紀に入ると人口はさらに増加、往来も活発化し、全世界で死者5000万人以上を出した100年前のいわゆる「スペイン風邪」など、新たな感染症流行の下地になった。

mRNAワクチンの登場が、新型コロナ感染症拡大を収束に向かわせる切り札となった

そして21世紀に入り、新型コロナによるパンデミック(世界的大流行)の中、mRNAワクチンという新たな武器が登場した。その効果は劇的であり、カリコ博士らの名前はジェンナーらと並び、ワクチン開発史の中に刻まれた。

感染症の専門家である北里大学の中山哲夫特任教授は、「将来的にもいつ出現するかわからないウイルス感染症に対する武器となる物で、ワクチンの新しい時代の訪れを感じさせる」とたたえる。

もちろんmRNAワクチンの登場はカリコ博士らだけの成果ではない。その開発史は30年におよぶ。無数の試行錯誤が続き、分子生物学の飛躍的な発展なども開発を後押しした。わずか1年の開発期間でワクチンが登場したのは決して奇跡ではない。複雑・高度化し、学問領域が極めて細分化された現在の科学においても、情報の公開と多様な研究がこうして結実する。

今回のカリコ博士らの受賞決定は、日本の研究環境をどう改善していくべきかという問いに対しても、示唆に富む。

気さくな人柄、情熱と信念で人類を救う

15年頃に独ビオンテックを訪問し、カリコ博士(中央)と記念撮影する東京医科歯科大の位高教授(右)(位高教授提供)

カリコ博士はハンガリー出身。大学でRNA研究に取り組み、博士号を取得後、さらに研究に励むも資金難から夫と2歳の娘とともに1985年に渡米した。米ペンシルベニア州のテンプル大学で研究員を経て、ペンシルベニア大学に移籍。そこで当時エイズウイルス(HIV)ワクチンの研究をしていた、今回ノーベル賞を共同受賞するドリュー・ワイスマン教授と出会い、05年に当該の論文を発表した。

だが当時、この論文は注目されず、大学は関連特許を企業に売却。研究中止で失意のカリコ博士に声をかけたのが08年設立のビオンテックだった。移籍したカリコ博士は13年に同社の副社長、19年から上級副社長を務め、研究開発をリードする。決して恵まれた研究環境ではない中で自ら道を切り開いてきたカリコ博士。その研究に対する飽くなき情熱と信念が人類の窮地を救った。

カリコ博士と交流のある日本人研究者に印象を聞くと気さくな人柄が浮かび上がる。ワクチンと一緒に投与して効果を高める物質「アジュバント」を研究する東大の石井教授は「静かで真面目な研究者。とても親しみやすい人」と明かす。石井教授はカリコ博士らが05年に発表した論文を査読した一人だ。がんワクチンなどを研究する東京医科歯科大学の内田智士教授は学会で会った印象について「気さくで話しやすい人」と振り返る。

核酸医薬を専門とする東京医科歯科大の位高啓史教授も「とてもオープンマインドな人。誰もが思いも寄らなかった一工夫を加え、現実の薬となり得る最初の可能性を提示した人」とたたえた。

日刊工業新聞 2023年10月03日

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