ニュースイッチ

異例の経歴持つ工作機械メーカー社長の経営哲学、「戦うには“兵たん”整備」

工作機械、火器、清掃車、サッシと多彩な事業を手がける豊和工業。伝統的に事業部間での従業員の異動は珍しかったが、現社長の塚本高広氏は、清掃車事業から工作機械事業へ移った異例の経歴を持つ。製品の特性も営業方法もまったく異なる形態の事業を渡り歩いた経験をもとに「会社の悪い所が見えるようになった」という。経営者となってから他の事業を見るようになってから取り組んだのは“兵たん”の整備だった。

塚本社長が若手のころは現在の清掃車部門の前身である「車両部」で清掃車の営業を担当した。その時の販売代理店巡りを通して学んだのは「フォローアップの大切さ」だ。アフターサービスを充実させて常連客を確保しているからこそ、営業マンが新規開拓に注力できる。そのサイクルを回していることを目の当たりにし「お客さまの満足感には、アフターサービスが大きなウエートを占める」ことに気付いたという。

1996年、清掃車事業でキャリアを積んでいた塚本氏に突然、転機が訪れた。シンガポールで工作機械を販売する現地法人の社長が急逝。その後任として指名を受けたのだ。門外漢の状態で、無我夢中で仕事を覚えていた日々。「悪い所」が見えたのはこの時だった。

「対応が遅い」「部品がそろっていない」「サービスのマニュアルがない」―。同社の工作機械事業は90年代まで専用機全盛の時代。言われるままのものを作る専用機指向ゆえに、アフターサービスに重きを置いていなかった。アフターサービスを起点に営業のサイクルを回す清掃車部門出身者から見ると、前線で戦うための“兵たん”が破たんしているのが明らかだった。当時は連日、この件で会社に改善提案をファクスで送りつけていたという塚本氏。兵たんを重視する経営哲学を培うにあたり「ここで積んだ経験が大きい」と振り返る。

02年に工作機械事業部次長の立場で本社に戻ってからは、まず同事業部で、この体質を改善を図った。4人程度しかいなかったサービスマンを増やしていき、00年代後半ごろまでには15人ほどに増加。さらに会社全体の経営を見るようになると、火器など他の事業部門についても、同様に兵たんを整えていき、「後方支援ができる体質を作り上げた」。 社長就任後には、事業部間の人事異動も積極的にするようにした。「事業部間の壁を崩すことによって、皆がいい所を分かち合える」ことも自らの経験から得た教訓だ。(名古屋・江刈内雅史)

【略歴】つかもと・たかひろ 78年(昭53)同志社大商卒、同年豊和工業入社。05年取締役、11年常務、15年専務、16年社長。滋賀県出身、68歳。

【関連記事】 工作機械の再編劇、次はどこで起こる?
日刊工業新聞 2023年01月10日

編集部のおすすめ