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コロナ禍で実用化加速「mRNA」医薬、日本人研究者たちの挑戦

新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)を受け、異例の早さで実用化された遺伝物質のメッセンジャー(m)RNAを利用したワクチン。感染症の発症予防や重症化防止だけでなく、この仕組みを応用すればがんや難病を克服する「mRNA(リボ核酸)医薬」の道も切り開く。独ビオンテック上級副社長で、米ペンシルベニア大学客員教授のカタリン・カリコ博士らに注目が集まる中、日本人研究者も研究に果敢に挑んでいる。

物質を置換 炎症抑制、ワクチン開発に寄与

遺伝物質の一つであるmRNAは筋肉や臓器、酵素、免疫物質などのたんぱく質を作る設計図としての役割を担う。細胞の核の中にある遺伝情報を蓄積したデオキシリボ核酸(DNA)は、そのまま核の外に情報を持ち運べないため、mRNAにその一部を転写(コピー)し、核の外でたんぱく質を合成する。

この仕組みをワクチンの開発に応用する試みは30年ほど前から始まっていたが、人工のmRNAを細胞にそのまま導入しても複数の不具合が起きる。その課題の一つを解決したのがカリコ博士だ。カリコ博士は2005年、同じ大学のドリュー・ワイスマン教授と共同で、mRNAを構成する物質の一つを置き換えれば、免疫系がmRNAを異物として認識して排除する炎症反応を抑制できることを発見。これが現在のmRNAワクチンの開発につながった。

mRNAワクチンでは、mRNAを細胞に確実に届ける薬物送達システム(DDS)も重要だ。この要素技術は90年代半ばに、カナダのブリティッシュコロンビア大学のピーター・カリス博士によって確立。体内にはmRNAを分解する酵素がいたるところで存在するため、これを脂質の膜で保護し、細胞に到着後は速やかに溶ける手法を開発した。

「キャップ構造」安定化貢献

日本人研究者も、mRNAワクチン開発につながる課題の一つを解決している。新潟薬科大学の古市泰宏客員教授だ。古市氏は74年、壊れやすいmRNAの安定化に貢献する、ウイルスのmRNAに特徴的な構造を発見した。その時、古市氏は「金の鉱脈だ」と思ったという。mRNAの端に帽子をかぶせたような特別な構造のため、これを「キャップ」と名付けた。

古市氏は米国のジェームズ・ワトソン、英国のフランシス・クリック両氏が53年に発見した「DNAの二重らせん構造」に関する学術論文を読み、「これは面白い」と思い、遺伝学の世界に飛び込んだ。当初はウイルスのmRNAを研究していたが、その後、細胞のmRNAに研究の幅を拡大。細胞でもこのキャップ構造を持っていることを明らかにした。「この構造は新型コロナのmRNAワクチンの基本構造にも採用されている」(古市氏)。

mRNAの医薬品への応用研究は、マウスの筋肉にmRNAを投与してたんぱく質を作らせることに成功した90年から本格的に始まった。それよりもはるか前に日本人研究者がmRNAワクチン開発に直接的に貢献する構造を発見していたことはワクチン開発史の中でも特筆すべきことだろう。

新潟薬大の古市客員教授(本人提供)

ワクチン開発のゲームチェンジャー

医療変革の潜在力秘める

新型コロナウイルス感染症に対する切り札として初めて実用化された遺伝物質のメッセンジャー(m)RNAを利用したワクチン。ワクチン開発史におけるゲームチェンジャーであるだけでなく、mRNA(リボ核酸)の利用はがん治療や再生医療など、今後の医療を変える計り知れない可能性を秘める。

有事・平時で使い分け

mRNAワクチンなどの研究を進める東京大学医科学研究所の石井健教授は、「デオキシリボ核酸(DNA)ワクチンやRNAワクチンは、ウイルスや細菌の塩基配列さえ分かればすぐに作れる。今回のパンデミック(世界的大流行)のような有事のワクチンとして有効だ」とした上で、「より取り扱いしやすく、安全性が高いとされる不活化ワクチンや、たんぱくワクチンは平時用に使うといった使い分けが必要だ」と指摘する。

石井教授は、ワクチンと一緒に投与してその効果を高める物質「アジュバント」研究の第一人者。これまで第一三共と共同で研究してきた。表舞台に出ることはなかったが、中東呼吸器症候群(MERS)ウイルスのワクチン開発でも同社と共同研究をしていた。新型コロナのmRNAワクチンの開発でも共同研究を進めている。

石井氏(本人提供)

がん疾患に幅広く対応

mRNAを使うワクチンの開発は、実は感染症対策にとどまらない。がんを治療するワクチンとしても実用化が期待されている。石井教授は「他の感染症を含め、幅広い疾患のワクチンとして開発が進んでおり、平時では新しい技術としてこれから伸びる領域だ」と力説する。

ナノ医療イノベーションセンター(iCONM)副主幹研究員で京都府立医科大学の内田智士准教授も、「mRNAは一つの方法でさまざまな治療用がんワクチンを作れる点が画期的。皮膚がんや前立腺がんなどさまざまながんに対して原理上は対応可能」と説明する。

内田准教授は医学と工学に精通する。工学的思考でRNA研究をしたのが出発点で、mRNAワクチンに使えそうな設計を発見したことをきっかけにがんワクチンなどの研究を始めた。

内田氏(本人提供)

軟骨変形治療、独創性を発揮

mRNAは免疫細胞が関与するワクチン以外でも注目される。iCONM主幹研究員で東京医科歯科大学の位高啓史教授は、軟骨などの摩耗が原因で慢性的な炎症の起きる変形性関節症の治療でmRNAを使った研究を進めている。

位高教授は整形外科医を続けつつ、遺伝子治療の研究に取り組む。当初は薬物送達システム(DDS)を作る研究をしていたが、mRNAの生体内投与に関する学術論文の急増をきっかけに、治療用のmRNA医薬開発に本腰を入れた。

軟骨形成を促進させるたんぱく質を作らせるmRNAを関節内に投与する位高教授の研究は現在、非臨床試験段階にある。

軟骨向けの治療薬はこれまでになく独創的。位高教授は「2023年の治験入りの可能性は十分ある」と意気込む。

位高氏(本人提供)

新型コロナ感染症の世界的な拡大で改めて着目されたmRNAワクチン。約30年にわたる開発の歴史は、感染症対策だけでなく、日本人研究者たちも参加してmRNA医薬という新しいジャンルを切り開きつつある。(山谷逸平)

日刊工業新聞2021年9月30日、10月1日

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