【小泉環境相に直撃】「脱炭素」は企業の成長戦略になるのか。
官民でベクトル合わせ必要
脱炭素が企業の成長に結びつくのか―。政府は2050年までに温室効果ガス排出量を実質ゼロにすると宣言し、30年度に国内の排出量を13年度比46%削減する目標を定めた。しかし、産業界には競争力の低下や雇用の喪失を心配する声がある。脱炭素を真の成長戦略にするため、官民がベクトルを合わせる必要がある。(編集委員・松木喬)
「私は『全てを電気自動車(EV)で』と言っている政治家を知らない。35年の(国内新車販売の)電動車100%は、EVを100%にする意味ではない」。10日の会見で小泉進次郎環境相はこう説明した。前日、日本自動車工業会(自工会)の豊田章男会長(トヨタ自動車社長)が「一部の政治家から全てをEVにすれば良いとの声を聞くが、それは違う」と語ったことを受けた発言だ。
自工会は電動化によって「550万人の大半の雇用を失う」と危機感を抱く。小泉環境相は「カーボンニュートラル(温室効果ガス排出量実質ゼロ)に向かうことで新たな産業や雇用が創出される」とし、「『世界中が日本車に乗りたい』となるために、建設的に意見交換を重ねたい」と会談を提案した。政府は脱炭素を成長戦略と説明するが、自動車業界の受け止めは違うようだ。他にも脱炭素への移行に不安を抱える業界がある。政府は誤解を解くために企業と膝を突き合わせて議論する必要がある。
一方で、最近まで産業界の首脳が気候変動政策を語り、その発言がニュースになることは珍しかった。小泉環境相は19年9月の就任直後、「世界のリーダーが気候変動に対する発言をしない日がない。日本では気候変動がそこまで重要な政策として位置付けられていない」ともどかしさをにじませていた。
それが20年10月の50年排出ゼロ宣言で一変。経営者も気候変動を重要課題として語るようになった。21年2月には米国が温暖化対策の国際ルール「パリ協定」に復帰し、脱炭素への移行が国際競争にもなった。
政府は研究開発を後押しする2兆円の脱炭素基金やグリーン成長戦略、100地域を支援する地域脱炭素ロードマップを策定。さらに22年度には民間事業への投融資や二酸化炭素(CO2)排出削減に連動した中小企業向け補助金の創設を目指す。“政策総動員”で脱炭素化を推進するが、官民の思いが一致しないと成長の果実は得られない。
インタビュー/環境相・小泉進次郎氏「産業を育成、脱炭素市場で勝つ」
脱炭素は成長戦略となるのか、小泉環境相に聞いた。
―30年度の新目標「46%減」の衝撃は。
「今も収まっていない。消化をしきれていない人や業界がある。気候変動対策が経済成長や雇用、市場の創出、技術獲得につながる大競争時代への号砲が鳴った。官民挙げて次世代の産業構造への転換に取り組む。脱炭素化には多様なアプローチがあり、各社がそれぞれの戦略で動き始めている。企業はもうからないことをやるはずがなく、脱炭素に将来の食いぶちがある。化石燃料依存型のマーケットは縮小する。早く移行した方が大きな果実を得られる」
―脱炭素時代の成長戦略には、国内総生産(GDP)や売上高とは違う評価軸が必要ではないでしょうか。
「それがSDGs(持続可能な開発目標)の発想だ。『三方よし』と言われるように売り手だけでなく、消費者にも地域社会や環境にもプラスをもたらす企業が報われる。金融機関もSDGsの発想を持った企業を評価する。ESG(環境・社会・企業統治)金融で資金の流れが変わる」
―温暖化対策の強化を訴えてきた企業グループの存在も、政府の目標強化の後押しになったのでは。
「そうした企業グループの存在が励みになった。役所は右と左の意見があると真ん中で決める傾向があるが、それでは大きな支持は得られない。どちらかを選ぶと怒る人がいるかもしれないが、私は世の中を変えるために頑張った方が報われる決断をしたい。大臣としてそのスタンスを守ってきた」
「20年はコロナ流行の年だが、カーボンニュートラル宣言の年でもある。将来、あの時、あの速度で日本が変わったおかげで『雇用が守られた』『新産業が創出された』と言われる時が来る。みんなにやさしい顔をして一歩一歩進むアプローチは、国民に残酷な結果を招く。じわじわと世界の市場が奪われていくのに、国内では稼ぎや雇用が守られている錯覚に陥る。日本だけ見ていると世界の潮流を見失う。なぜ46%減が衝撃的だったかというと、日本の変化が遅かったから。世界は日本を待ってくれない。我々は急速に巻き返す必要がある」
―太陽光パネルや風力発電は輸入品が多い。日本が脱炭素に向かうほど、海外企業に国内市場を開いたように思えます。
「海外のために市場を開くことはない。仮に国内で太陽光や風力発電などの産業基盤がないことを理由に脱炭素へ向かわないのなら、日本は孤立する。世界に脱炭素市場が広がっており、日本も稼げる方向へいかないと持続的な発展、繁栄はない。腹を決めて産業を育成し脱炭素市場をとる。そのために官民の前向きな決意を引き出すことが大事だ」
―大臣就任から2年が過ぎました。転換点はありましたか。
「間違いないのは19年のCOP25(気候変動枠組み条約第25回締約国会議)。(石炭火力発電に関する日本の政策が)たたかれ、批判にさらされ、挫折感があった。しかし、あの体験をもとに語れるのは自分しかいない。役所で抵抗されても『じゃあCOPに行ったのか』と言ってはねのけることができた。政府内で羽交い締めにされそうでも『どうぞ』と言える。COP25での反骨心があるから、石炭政策を見直せた。動かないと言われていた政策が動いた。あれから役所の意識も変わった。もう一つのターニングポイントは菅首相の就任。(お互いに)改革思考を持っていたから、過去からの延長線ではない改革が生まれた」