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夏目漱石と同時代を生きた文学者から学ぶ、日本の恋愛至上主義と現代のキーワード

片山恭一コラム

夏目漱石の同世代の文学者に、北村透谷という人がいた。とても早熟な人で、あまり早熟過ぎたのか二十代半ばで自殺してしまう。詩人であり、思想家でもある。文学史的には、日本における恋愛至上主義のはしりと位置づけられ、島崎藤村などに大きな影響を与えたとされている。

短かった人生のわりにはいろんなことをやっていて、早稲田大学に在籍しながら自由民権運動に参加しているし、運動に挫折したあとはキリスト教の洗礼を受け、さらに結婚もしている。彼の有名な評論に「恋愛は人世の秘やくなり」ではじまる『厭世詩家と女性』というものがある。「厭世的な詩人」とは透谷自身のことだ。つまり自由民権運動に参加して挫折し、絶望して厭世的になったということだろう。そういう自分にとって最後の拠り所が女性だというわけである。この「厭世的」という気分は、いま日本の社会(世界中?)で広く共有されているのではないだろうか。

学生時代に透谷は自由民権運動というかたちで政治・社会的な運動に参加していく。社会的な現実のなかで自由や理想を追い求めた。しかし現実の壁に跳ね返されて挫折し、絶望したときに、あらためて自分が生きる意味を考えなければならなくなった。何によって自分を支えるか、いかにして自我を救済するか、自分が自分であることの意味をどこに見出すか、といったことだろう。透谷の出した答えは「女性」だった。女性との関係であり、恋愛ということである。

透谷が生きた時代の現実として、自由や平等が日本の社会で実現する可能性はほとんどなかった。社会的現実に敗れたとき、彼は女性たちとの関係に活路を見出した。社会現実的なレベルで実現不可能な近代的自我のあり方を、女性たちとの関係に求めようとした。挫折には違いないが、現実逃避というよりは、もっと積極的なモチーフがこめられていたように思う。

言うまでもなく、透谷が生きようとした現実は、漱石が『それから』や『門』『こころ』など一連の作品の主題としたものである。また漱石の強い影響を受けた芥川龍之介や、その後の有島武郎などにも受け継がれていく。日本の近代文学にとって一つの大きなテーマであったと言える。

後発近代国家の日本で、近代的自我はどのようなものでありうるかと問うたとき、黎明期の文学者たちは、それを江戸時代の因習的な男女の関係と断絶したところで成立する恋愛、自由で対等な恋愛というところでつかまえようとした。家柄や財力や社会的地位といった制度的なものを抜きにして、一人の女性とのあいだに純粋で自然な愛情による関係が成立すること、相手の女性を人間として対等に公正に扱うこと、それが近代的な自我や自己に対応していると考えたのである。

透谷たちの問題は、そのまま現代にカジュアルに移行することができると思う。ぼくたちも新自由主義が行き詰った不自由な管理社会のなかで「いい生き方とはどのようなものでありうるか」と問うている。江戸時代の因習的な男女関係に相当するものは、企業(生産者)と消費者の関係でもいいし、大手と下請けの関係でもいいし、1%と99%の関係でもいい。そうした関係が支配する世界から、一人ひとりがいかに離脱するか。とは別に、ということである。

北村透谷は、いまから130年前の青年である。彼が考え、悩んだことが、奇妙に現代と響き合う。透谷の場合は最後に自分を死に追い詰めていったわけだが、ぼくたちはあまり自分を苦しめずに、彼の手に余った問題をひらいてみたい。幸い、現在はインターネットやSNSといったインフラがある。これらをうまく活用して、対等で公平でやわらかな人と人のつながりをつくり出すことはできないだろうか。透谷たちにとって「女性」がキーワードだったように、ぼくたちにとっては「仲間」がキーワードになると思う。

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