レジ袋有料化で再脚光の風呂敷、「包む」「結ぶ」日本文化のしとやかさ
レジ袋が有料化され、風呂敷が見直されているらしい。アマゾンなどでもいろんな種類のものが売られている。「風呂敷バッグ」などというお手軽なものも人気商品になっているようだ。でも、せっかくなら「包む」「結ぶ」という日本の伝統的な文化を、生活の中に少しでも取り戻したいものだ。
ぼくたちが子どものころ、大人たちは日常的に風呂敷を使っていた。公務員だった父は、仕事関係の書類などを風呂敷に包んで持ち帰った。祖母たちは贈答品を持参する際に、かならず風呂敷に包んで先方のお宅を訪問した。玄関先で風呂敷を解いて、「つまらないものですが」と言って品物を差し出す。そうした作法は、子ども心にも美しいものに思えた。
日本人が風呂敷を携帯しなくなって、どのくらいになるのだろう。いま述べたような情景は、もう半世紀ほども前のものだ。1970年代には、すでにカバンが主流になっていた気がする。ぼくも風呂敷はほとんど使ったことがない。
しかし考えて見れば、シンプルさと多機能性という点で、風呂敷は非常にすぐれたものである。形状的には正方形の布切れにすぎない。これでなんでも包めてしまう。子どものころは夏や秋の祭りに客を招くと、手土産に清酒の一升瓶を風呂敷に包んで持ってくる人がいたものだ。あるいはスイカのような球状でかさばるものでもきちんと包めてしまう。目的を果たした後は、小さくたたんで背広のポケットにでも入れておけばいい。
その風呂敷が、レジ袋の有料化がきっかけで見直されているというのはうれしいことだ。これ以上のエコバッグは、ちょっと思いつかないしね。とはいえ、肉や魚などの生鮮食料品を包むのには適さない。スーパーに持っていくのは、やはりトートバッグなどのほうがいいだろう。
では、本屋はどうだろう? 店員が「袋にお入れしますか?」と言うのを「いえ、結構です」と断って、おもむろに風呂敷を取り出す。そして支払いを済ませたアポリネールの詩集なんぞを包むのである。風呂敷を抱えて店を出ながら、「ミラボー橋の下をセーヌは流れる、われらの愛も。時は行き、鐘は鳴る。日は去り、わたしは残る」なんていうのを、一度やってみたいと思っている。