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「ソフトカプセル」産業にみる、日本企業“復活”のヒント

<情報工場 「読学」のススメ#79>『日本ソフトカプセル産業史』(近藤 隆 著)

「ソフトカプセル」をご存じだろうか。薬やサプリメントに用いられるカプセルのうち、キャップとボディに分かれていて固いものが「ハードカプセル」。対して、横から見ると楕円型のもの、フットボール型のものなどがあり、オレンジや黄色、透明など色もさまざまで、つまむと軟らかいのがソフトカプセルである。「それなら、いつも飲んでいるよ」という方も少なくないのではないだろうか。

調味料や入浴剤にも用いられるなど、気をつけて見ると意外と身近にあるソフトカプセル。だが、どんな材料でできているのか、どのように製造されるのか、いつ日本にやってきたのか――詳細を知る人は少ないにちがいない。

自動車や電機といった、いわゆるメジャー産業の歴史には、有名なエピソードも多く、関連書籍もたくさん発行されている。しかし、いつの間にか発展していたように見えるマイナー産業にも、当然ながら歴史がある。市場規模にかかわらず、産業が生まれ、発展し、成熟していく過程には、語るに十分な豊かさと味わいがあり、そこからさまざまな教訓を得られる。ソフトカプセル産業もしかりである。

近年のソフトカプセルの世界市場は、欧米を中心に30拠点以上を構える米キャタレントファーマソリューションズが、全体の6割以上のシェア握るという。だが、国内市場における同社のシェアは約1割にすぎない。ほとんどのシェアは、数社の老舗国内企業が占めている。なぜだろうか。

『日本ソフトカプセル産業史』(出版文化社)に、その理由が記されている。同書の著者である近藤隆さんは、富士カプセルの取締役研究開発部長などを経て、三生医薬を創業、現在は三洋薬品HBC代表取締役社長を務めている。

産業の成長を呼び込んだ「ロータリー式充填機」への思い切った投資

日本で初めてソフトカプセルを生産、販売したのは、1927年に東京・国華製薬に入社した加藤宣安という人物だ。米国製の「平板法プレス式」という方式によるソフトカプセル製造機を導入、ゼラチン製のソフトカプセルの製造販売を開始する。その後、日本薬業機械(現在のニチヤク)と協力して同方式の国産カプセル製造機を開発すると、1939年、現在の富士カプセルを創業した。

その後加藤宣安は、富士カプセルの後継者にすべく、加藤咲郎を養子に迎える。そして富士カプセルに入社した加藤咲郎は、1966年ごろ、新式のソフトカプセル製造機械、ロータリー式充填機に目を付けて輸入を画策する。平板法に比べて、カプセルの原料であるゼラチンのロスが減り効率的に生産できるとみたからだ。

ところが、同社社長の加藤宣安は、平板法で十分利益が出ていたため、時期尚早として大反対した。納得できない加藤咲郎は、社長を継ぐ予定だった富士カプセルを飛び出し、地元の製材業者と組んで東海カプセルを設立。当時4000万円(現在の2億円弱)のロータリー式充填機を輸入して、ソフトカプセルの生産を開始する。

この加藤咲郎の行動から思い出されるのは、ホンダ創業者の本田宗一郎が、1952年、資本金600万円の時代に4.5億円相当の工作機械を購入したという逸話である。本田宗一郎は、当時から視線を世界に向けていた。欧米との歴然とした技術の差を自覚し、たとえ優れた外国製品が輸入されても負けないだけの技術を磨くため、まずは、世界でトップクラスの工作機械の導入が重要と考えたのだった。

加藤咲郎も、本田宗一郎と同じ志、考え方を持っていたのかもしれない。苦労の末、ロータリー式充填機の稼働にこぎつけるや、歩留まりは劇的に向上し、生産効率は平板法の10倍にもなったという。

前述の米キャタレントファーマソリューションズが日本市場に参入したのは、加藤咲郎のロータリー式充填機輸入からわずか5年後だ。もし、彼の決断があと数年遅ければ、日本のソフトカプセル市場は、外資にのみ込まれていたかもしれない。

ちなみに、加藤咲郎はその後、自ら創業した東海カプセルを離れ、富士カプセルに復帰する。加藤宣安が経営手腕を認めたのだろう。あっぱれな世代交代ではないか。

現代の日本企業は海外に学ぶ謙虚な姿勢を思い出すべき

ところで、トヨタは1930年代、国産初の乗用車開発にあたって、米ゼネラル・モーターズ社製のシボレーを手に入れ、解体して研究した。パナソニック(旧松下電器産業)が、オランダのフィリップス社と提携して技術指導を受けたのは、1952年のことである。同時期、海外視察に出かけた本田宗一郎が、訪問した工場に落ちていたプラスねじをポケットに入れて持ち帰り、ホンダ製バイクに採用したエピソードは有名だ。

こうした、長年日本経済を支えてきたメジャー産業の各社は皆、欧米の技術を真似するところから始め、追いつけ追い越せと改善を重ねて成長した。マイナー産業であるソフトカプセル産業も同様だったようだ。『日本ソフトカプセル産業史』によると、ソフトカプセルの金型を手がけていた技術者は、輸入されたロータリー式充填機を解体し、構造を学び、改善を重ね、優れた国産機をつくりあげて産業を発展させていったのだった。

かつての高度経済成長期に日本企業は、“先生役”だった欧米メーカーから自動車や電機の市場シェアを奪った。だが、近年は同じ構図が、新興国と日本の間にできている。以前の日本企業による快進撃を知る新興国の企業は、日本から学び、日本企業のシェアを奪っている。

イノベーションを起こして次代に飛躍できる日本企業は、ごく一部の優等生だけ。それ以外の企業は、衰退への道を歩むほかないのだろうか。

そうならないための方法を模索する際、マイナー産業であるソフトカプセル産業の歴史から学ぶべきものはあるだろう。それは、先手を打つ思い切った投資や、謙虚に他国に学ぶ姿勢かもしれない。ぜひ『日本ソフトカプセル産業史』から、ヒントを見つけてほしい。

(文=情報工場「SERENDIP」編集部)
『日本ソフトカプセル産業史』 -民族資本で守った男たち
近藤隆著 出版文化社248p 1,500円(税別)
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冨岡 桂子
冨岡 桂子 Tomioka Keiko 情報工場
「まず技術ありき」というような、技術先行の商品開発は、しばしば批判される。電機製品などで、ユーザーのニーズを考慮せずに、とにかく持てる技術をふんだんに詰め込み、ほとんどの機能が使われない無駄な「多機能製品」を世に出す。そんなことが、日本のメーカーでよく行われていたからだ。しかし、ソフトカプセル産業のように、まずは技術を導入し、そこから工夫と改善を重ねていく「技術先行」は、むしろ有効なのではないだろうか。ニーズにしばられず、自由な発想で工夫を重ねることができる。歴史から学びつつ、さまざまな方法を試すことが、先行き不透明な時代だからこそ、求められているのかもしれない。

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