過去・現在・未来をつなぐ、1964年東京五輪を知る遺構たち
河川利用、短期間で建設
半世紀以上も前の1964年(昭39)。東京五輪・パラリンピックが開催されたのは、高度成長期まっただ中のことだった。五輪を機に東京の姿は一変。大きく変貌を遂げた都市の夜景のきらめきは、経済発展の象徴でもある。2020年夏の予定だった今回の東京五輪は新型コロナウイルスの影響で延期を余儀なくされ、街も少し元気がない。東京が再び輝きを取り戻すことを願い、64年五輪の遺産を現在の灯(あか)りと共に振り返る。
遠くに横切る「日本橋」(東京都中央区)をまたぎ、日本橋川に沿うように作られた首都高速都心環状線。64年の東京五輪開催が決まり、羽田空港から競技場間を結ぶ延伸ルートの一部として優先的に建設された。ちなみに当時はまだ環状ではなかった。
短期間で建設するため、用地買収を必要としない河川を利用し間に合わせたが、景観を大きく変えてしまうことに。
しかし20年東京五輪後、この付近の高速地下化工事が始まることが決定。五輪は延期となったが、工事は予定通りいけば今秋にも始まることもあり、この姿も間もなく見納め。いずれ新たな土木遺構となる。(写真・文=田山浩一)
東京五輪の道路整備でできた「オリンピック道路」
1964年の東京五輪・パラリンピックは都心部の道路整備を促した。首都高速道路は良く知られるが、都内のいくつかの通りは今も「オリンピック道路」と呼ばれている。国道246号線のうち「青山通り」と呼ばれる区間もその一つ。当時は路面電車と自動車が併走し、整備工事は大がかりになったという。天皇陛下即位を祝う2019年11月の「祝賀御列の儀」では、パレードの車列が青山通りを通って赤坂御所へ向かった。
青山通りの交通量は新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言で少なめだが、本来は多くの車が行き交う。将来は様々な自動運転モビリティーが活発に行き交う光景を見せてくれるかも知れない。(写真・文=森住貴弘)
先見の明、今も色あせない
1964年の東京五輪・パラリンピックで問題となったのが、訪日外国人、いわゆるインバウンド受け入れのための施設不足だった。国際的な基準のホテルをと、オリンピック委員会と政府は財界に打診。それに応える形で建設されたのが、ホテルニューオータニである。
創業者は大正、昭和を駆け抜けた実業家、大谷米太郎。地上17階、客室数1058室(当時)のホテルを、着工からわずか1年半足らずで完成させた。ユニットバスや高性能カーテンウオールなど当時最新の工法を積極的に取り入れ、後の超高層ビルの基本となる柔構造理論設計も採用するなど、その先見の明はまったく色あせない。(写真・文=高山基成)