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誰も売れると思っていなかった「信玄餅」が山梨名物に成長したワケ


桔梗屋(山梨県笛吹市、中丸純社長、0553・47・3700)のルーツは江戸時代にさかのぼる。そこから、のれん分けを受けて7店あった桔梗屋が第二次世界大戦の空襲で被災。この中で唯一、戦後に再興したのが、「桔梗信玄餅」を主力とする現在の桔梗屋だ。再興した当初の主力製品は、どら焼きやきんつばといった旧来と変わらぬ一般的な和菓子だった。戦後の復興の中、甘い嗜好(しこう)品への需要は旺盛で「昭和30年前半ごろまで和菓子屋は皆忙しかった」と、元社長の中丸眞治相談役は語る。中丸氏は桔梗信玄餅の開発から約半世紀の間、売り込みに奔走した。

中丸氏は父親が再興した桔梗屋で18歳のころ、両親とともに桔梗信玄餅を開発。背景には新たに普及し始めた洋菓子による和菓子需要への圧迫があった。「(桔梗信玄餅の)発売当初は同業者の誰も売れるとは思っていなかったようだ」(中丸相談役)と振り返る。

だが、大学で広告研究会にも所属していた中丸氏は、当時には珍しかったのぼり旗を使った宣伝手法や卸も手がけるなど、目新しい手法を展開。商品をかついで売り歩いたところ人気を呼び、「わずか数年で売り上げが数十倍に伸びる」(同)という急成長。同氏が大学を卒業する頃には工場を建設するまでになった。

国産もち米粉100%を原料とする桔梗信玄餅は、甘さを抑えたこと以外は開発当初と同じレシピで製造している。一方で、山梨県笛吹市の本社工場内にいち早くアウトレット店を導入し、賞味期限が近づいた商品を詰め放題で安く販売するなどの新手法で大成功を収めた。このほか、イチゴの産直販売や大規模なソバ畑運営など農業事業も軌道に乗っている。中丸相談役は「常にベンチャー的であろう」と従業員を鼓舞しつつ、新規事業への積極果敢な取り組みを促す。

明治22年、甲府市内に開店した創業当初の店舗
【企業メモ】1889年(明22)和菓子屋として創業。1968年に開発した桔梗信玄餅が大ヒット。半世紀以上、主力製品として君臨する。外部とのコラボ製品も多数。グループ企業を通じて農業事業も展開する。

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