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名菓のミレービスケット、高知から世界へ進出
飛躍の野村煎豆加工店
野村煎豆加工店が製造・販売する「ミレービスケット」。メーカー名は知らなくても、高知県出身の漫画家、やなせたかし氏が手がけた「ミレーちゃん」という名前のマスコットキャラクターや「まじめなおかし」のキャッチフレーズ、どこか懐かしい包装からすぐに思い浮かべる人も多いだろう。今や高知を代表する菓子として全国区となったミレーだが、同社が市場を拡大したのは直近、わずか10年ほどの間。この10年間に主力製品はミレーにシフトし、全社売上高は約10倍に伸びた。次々と新しい味のミレーを生み出しては勢いを増し、昨今は海外市場の開拓にも乗り出している。
同社は1923年(大12)、野村純司(きよし)社長の父が豆類の1次加工・販売を手がける個人商店として創業した。戦後、原料の豆が不足した時代には小麦粉で作った“人造豆”を製造。1952年に有限会社化し、さまざまな豆菓子を主力に事業を営んでいた。そのような中で当時、ミレービスケットを作っていた大手菓子メーカーがこの生産をやめるという話が聞こえてきた。1960年頃のことだ。ミレーの生地は名古屋の企業が作っていたため、この大手メーカーは「自社の代わりに2次加工をやらないか」と全国の菓子メーカーに呼びかけた。ミレーの2次加工は生地を揚げ、塩で味を付けるシンプルな作業。これに先代社長が手を上げたのが、野村煎豆加工店製ミレーの始まりだった。ただ環境は変化する。同社は経営が厳しくなり、「両親は会社をたたもうと考えていた」と野村社長は振り返る。
野村社長は大学卒業後、建設会社に入社した。時は高度経済成長期。大規模プロジェクトを経験し、原価意識と環境の変化をよく見るということをたたき込まれていた。一方、高知では両親の意向を知った野村社長の弟(現野村煎豆加工店専務)が「せっかく育った会社をつぶしたくない」と会社の存続に尽力していた。ただ経営収支はマイナス。約30人の従業員を抱え、「いつつぶれてもおかしくない状態だった」(野村社長)。
野村社長は弟に請われて1968年、同社に戻り、1972年、31歳の時に社長を引き継いだ。そして製造部門の利益分析と立て直し、職員の福利厚生の充実に取り組んだ。当時の販路は高知県内にとどまっていたが、時は量販店(スーパー)の黎明期。「豆菓子なら野村さん」と売り先に制約はなく、県内スーパーのすべてと直販で取引ができた。「資金繰りは厳しかったが、販路は恵まれていた」と野村社長。経営は5-6年で軌道に戻った。
四国山地に阻まれた高知の市場。同社は県内でネームバリューを高め、しっかりとした経営基盤を築き上げていった。ミレービスケットの売り上げ構成はまだ小さかったが、地道に生産を続けていた。過去、ミレーの2次加工に手を上げた企業は全国に数社あった。しかし、いずれも売れ行き不振で作るのをやめていた。「ほかがやめたというニュースも入ってこなかった」と野村社長は笑う。そのうち修学旅行生らが土産などで買っていくようになり「安くておいしい」という口コミが県外にも広まった。販売させて欲しいという引き合いもあったが、10年前まではすべて断っていた。
転機となったのは2009年の食品見本市「スーパーマーケット・トレードショー」への出展だ。尾﨑正直高知県知事から声がかかり、高知県ブースに参加した。ここで火が付き、販路は一気に広がった。10年前、売上高の20%程度だったミレーは今、80%を占めるまでになった。以前は1カ月半の間で5トンの生地を使っていたが、今は同量を1日で消化する。「シンプルなモノが少ない時代だからこそ、シンプルな製品が受けているのではないか」。野村社長はこう分析する。
2018年9月、貿易に詳しい外部人材を招聘し、社内に海外班を設置した。すでにシンガポールや中国には商社経由で販売しているが、さらに販路を広げるためオーストラリアなどへのアプローチを独自に始めている。一方、海外販路の広がりも見込んで現在、本社の近隣地にミレービスケットの専用工場の建設を進めている。6月稼働予定で、生産能力は日産4トン。効率化が進めば日産6トンの既存工場と合わせてフル稼働時、同10トンの生産も可能という。
野村煎豆加工店の本社工場は1998年の豪雨災害など幾度も水害に見舞われた。しかし、こうした状況を常に従業員の力で乗り越えてきた歴史がある。従業員は現在67人。「これだけの人が安定した生活を送れる。会社という船は必ず残したい」、野村社長は力を込める。
【企業情報】
▽所在地=高知県高知市大津乙1910-3
▽社長=野村純司氏
▽創業=1923年8月
▽売上高=18億5000万円(2017年度)
豆菓子からビスケットへ
同社は1923年(大12)、野村純司(きよし)社長の父が豆類の1次加工・販売を手がける個人商店として創業した。戦後、原料の豆が不足した時代には小麦粉で作った“人造豆”を製造。1952年に有限会社化し、さまざまな豆菓子を主力に事業を営んでいた。そのような中で当時、ミレービスケットを作っていた大手菓子メーカーがこの生産をやめるという話が聞こえてきた。1960年頃のことだ。ミレーの生地は名古屋の企業が作っていたため、この大手メーカーは「自社の代わりに2次加工をやらないか」と全国の菓子メーカーに呼びかけた。ミレーの2次加工は生地を揚げ、塩で味を付けるシンプルな作業。これに先代社長が手を上げたのが、野村煎豆加工店製ミレーの始まりだった。ただ環境は変化する。同社は経営が厳しくなり、「両親は会社をたたもうと考えていた」と野村社長は振り返る。
会社はつぶさない
野村社長は大学卒業後、建設会社に入社した。時は高度経済成長期。大規模プロジェクトを経験し、原価意識と環境の変化をよく見るということをたたき込まれていた。一方、高知では両親の意向を知った野村社長の弟(現野村煎豆加工店専務)が「せっかく育った会社をつぶしたくない」と会社の存続に尽力していた。ただ経営収支はマイナス。約30人の従業員を抱え、「いつつぶれてもおかしくない状態だった」(野村社長)。
野村社長は弟に請われて1968年、同社に戻り、1972年、31歳の時に社長を引き継いだ。そして製造部門の利益分析と立て直し、職員の福利厚生の充実に取り組んだ。当時の販路は高知県内にとどまっていたが、時は量販店(スーパー)の黎明期。「豆菓子なら野村さん」と売り先に制約はなく、県内スーパーのすべてと直販で取引ができた。「資金繰りは厳しかったが、販路は恵まれていた」と野村社長。経営は5-6年で軌道に戻った。
シンプルさが人気の秘密
四国山地に阻まれた高知の市場。同社は県内でネームバリューを高め、しっかりとした経営基盤を築き上げていった。ミレービスケットの売り上げ構成はまだ小さかったが、地道に生産を続けていた。過去、ミレーの2次加工に手を上げた企業は全国に数社あった。しかし、いずれも売れ行き不振で作るのをやめていた。「ほかがやめたというニュースも入ってこなかった」と野村社長は笑う。そのうち修学旅行生らが土産などで買っていくようになり「安くておいしい」という口コミが県外にも広まった。販売させて欲しいという引き合いもあったが、10年前まではすべて断っていた。
転機となったのは2009年の食品見本市「スーパーマーケット・トレードショー」への出展だ。尾﨑正直高知県知事から声がかかり、高知県ブースに参加した。ここで火が付き、販路は一気に広がった。10年前、売上高の20%程度だったミレーは今、80%を占めるまでになった。以前は1カ月半の間で5トンの生地を使っていたが、今は同量を1日で消化する。「シンプルなモノが少ない時代だからこそ、シンプルな製品が受けているのではないか」。野村社長はこう分析する。
海外市場に挑む
2018年9月、貿易に詳しい外部人材を招聘し、社内に海外班を設置した。すでにシンガポールや中国には商社経由で販売しているが、さらに販路を広げるためオーストラリアなどへのアプローチを独自に始めている。一方、海外販路の広がりも見込んで現在、本社の近隣地にミレービスケットの専用工場の建設を進めている。6月稼働予定で、生産能力は日産4トン。効率化が進めば日産6トンの既存工場と合わせてフル稼働時、同10トンの生産も可能という。
野村煎豆加工店の本社工場は1998年の豪雨災害など幾度も水害に見舞われた。しかし、こうした状況を常に従業員の力で乗り越えてきた歴史がある。従業員は現在67人。「これだけの人が安定した生活を送れる。会社という船は必ず残したい」、野村社長は力を込める。
【企業情報】
▽所在地=高知県高知市大津乙1910-3
▽社長=野村純司氏
▽創業=1923年8月
▽売上高=18億5000万円(2017年度)