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東京・丸の内は「日本一のビジネス街」であり続けられるか

ベンチャー支援から国内最大のフィンテック拠点目指す
 東京・丸の内エリアを象徴するビル「丸ビル」が6日、開業15周年を迎えた。時代の変遷とともに姿を変えてきた「日本一のビジネス街」は丸ビル開業を皮切りに第3次開発がスタート。隣接する大手町エリアや有楽町エリアとともに、再び大きく変わろうとしている。東京の各地で大規模な再開発が進められる一方、グローバルな都市間競争も激化する中で、丸の内エリアは今後どう進化していくのか。

 東京駅・丸の内口から皇居にまっすぐ伸びる行幸通りを挟み、左右に建つのが「丸の内ビルディング(丸ビル)」と、4月に開業10周年を迎えた「新丸の内ビルディング(新丸ビル)」だ。外観に建て替え前の面影を残し、首都・東京の中心にそびえる。

 新しい丸ビルの完成から15年間で最も大きな変化は「月曜から金曜の街」と呼ばれた丸の内エリアに、土日の来街者が大きく増えた点だ。

 丸の内仲通りの車道の幅を2メートル減らし、その分歩道を拡幅。店舗数は開業前に比べ約3倍に増加し、2002年7月に約4万6500人だった土日の来街者は16年10月時点で11万4500人まで増えた。
丸の内エリアのメーンストリート「丸の内仲通り」は、休日も大勢の来街者でにぎわう

 同ビルの完成により周囲のテナントを丸ビルに誘致し、空いたビルを建て替えるドミノ式の開発を可能になった。1月の大手町パークビルディング完成までに12棟の再開発を終え、4月には高さ日本一となる地上約390メートルの超高層タワーを含む「常盤橋街区再開発プロジェクト」の開発がスタート。丸の内、大手町、有楽町エリアを含む「大丸有エリア」の再構築を目標に、新たな開発が進む。

 今後の丸の内エリアはどう変わっていくのか。三菱地所の吉田淳一社長は「エリアの総合的な魅力向上を進めるのが大事だ」と話す。見据えるのは海外有力都市との競争だ。

 丸の内エリアの訪日旅行客は年間200万人。外資系企業も多く、三菱地所の保有ビルだけでも155社のテナントが入居している。

 このため、同社は16年に独自の多言語翻訳アプリの配信を始めたほか、9月に実施した防災訓練でも外国人対応に力点を置いた。

 今後は同社単独にとどまらず、規制緩和によるビジネス環境の整備やセキュリティーの向上、さらに歴史や文化も含めた魅力を内外に広めて「『一生に一度は東京に行かないと』と思ってもらえるように魅力をきっちり理解してもらう」(吉田社長)。ニューヨークやロンドンのビジネス街にひけをとらない街づくりを目指す。

 新たなビジネス創出の機運も高まっている。新しい丸ビルの開業直後に同社のベンチャー支援の嚆矢(こうし)となる会員制組織「東京21cクラブ」が発足。07年には事業開発の支援機能を加えた「エッグジャパン」を新丸ビルに開設した。

 16年には金融とITを融合した「フィンテック」に特化した拠点「フィノラボ」が発足。今年2月には、みずほフィナンシャルグループ(FG)の研究施設も本格稼働。移転・拡張で床面積を2倍以上に拡大した。国内最大のフィンテック拠点として存在感を増している。

 三菱地所自体も17年度内に本社を大手町パークビルディングに移転する。同ビルではサービス付き賃貸集合住宅を大手町エリアで初導入したほか、サービス付き小規模オフィスも整備。2階にはテナント間の交流促進のため就業者専用のラウンジなどを設けた。同社でもITを活用したフリーアドレスの導入やペーパーレス化などを検討中。「未来の働き方を提案できるオフィス」(同)を目指している。

インタビュー・髙木茂三菱地所特別顧問


 丸ビルの建て替えに始まる丸の内の第3次開発は「世界で最もインタラクション(相互作用)が活発な街」が目指す姿。丸ビル開業時の社長の髙木茂三菱地所特別顧問に丸ビル建て替え当時の状況や現在の丸の内エリアへの思いを聞いた。
髙木茂氏

 ―旧丸ビルの建て替え当時の状況を教えてください。
 「丸の内エリアのオフィスビルは古くなっていた。動きが速い外資系金融機関の流出も目立った。丸の内は時代から置き去りにされるという危機感があった。そんな中でも旧丸ビルはほぼ満室稼働だった。古くからのテナントには丸ビルに愛着を持っていた方も多く、福澤さん(福澤武社長=当時)も相当悩んだと思う。耐震性の問題というやむを得ない事情を理解してもらい、移転交渉は1年ほどでまとまった」

 ―建て替えで目指した丸ビルの姿は。
 「キーポイントは『人が主体』ということ。今後のオフィスは知的な創造ができる空間になる必要があると考えた。そのためのインタラクションがなければ地域としても成り立たなくなる。設計部門だけでなく管理部門も加わり、建て替えに向けた議論を交わした」

 ―88年には「丸の内マンハッタン計画」を発表しました。
 「丸の内エリア全体を建て替えた場合に交通や上下水道、電気など既存インフラでどれだけの開発が可能か検討して発表した。当社の保有ビル以外の物件も入っており、お叱りも受けたが、発表を機に『大手町・丸の内・有楽町地区再開発計画推進協議会』を設立。方向性を共有できた。さらに行政も含めて再開発の理念を共有できないかと、96年に東京都や千代田区、JR東日本と『大丸有地区まちづくり懇談会』を立ち上げた。長い地ならしがあったからこそ再開発が成功した」

 ―今の丸の内エリアをどう見ていますか。
 「平日の昼間に乳母車を押す若い女性を見ると感慨深い。街全体が楽しくなってくれば、自然と人が集まる。今の丸の内仲通りを歩くのは楽しい」

 ―今後の丸の内エリアのあるべき姿は。
 「異業種交流を促すいくつかの場を設けている。違うテーマを追求する企業がお互いに刺激しあうことで街の活性化につながる。また、国際的な都市間競争で負けないためには日本固有の文化を大事にしなければならない。例えば安全で清潔というのは日本の長所だと思う。グローバル化の中でも固有のものを大事に保ち、なおかつ人種を問わず、いろいろな人びとと交流できる国であり、街になってほしい」
(聞き手=斎藤正人)
 旧丸ビル(丸ノ内ビルヂング)は1923年に完成。米国式の建築技術で建てた地上9階建ての丸ビルの規模は「東洋一」とされた。
 低層階は商業施設が入り、多くの人びとに愛された丸ビルは歌謡曲の歌詞の一節にもなり、大きさや質量を「丸ビル何杯分」と表現するほどだった。
 丸ビルが転機を迎えたのは90年代のバブル経済の崩壊。オフィス需要の低下と相次ぐ金融機関の統廃合で高稼働を誇った丸の内エリアも空室が目立つようになり、新宿など他のビジネス街へのテナント流出も表面化した。
 それでも丸ビルはほぼ満室稼働を続けたが、95年の阪神・淡路大震災発生で見直された耐震基準のクリアがほぼ不可能なことが判明。同年11月に建て替えを公表して「丸の内再構築」を掲げる第3次開発がスタートした。
           
日刊工業新聞2017年9月6日
明豊
明豊 Ake Yutaka 取締役ブランドコミュニケーション担当
自分が不動産業界を担当したのは2000~2002年の2年間。ちょうど「REIT」登場で業界にも新しい風が入り込もうとしていたが、まぁ古い体質の企業ばかりと感じたのを覚えている。いろいろな業界があれど「三菱」より「三井」の方が格上というのはほとんどないだろう。個人的に丸の内という街はとても好きだし、地所にも多くの知り合いもいる。でもこの何年かをみていると、三井不動産の方がよほど危機感を持って変えようと動いているようにみえる。地所も中堅・若手社員はチャレンジしようとしているが、会社全体になるとどうしても保守的になってしまう。何をもって「日本一」なのか。賃料?新しいビジネス街に生まれ変わるなら、地所自らも大きく変わらないとエネルギーを吸引できない。

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