“工場を持たない食品会社”、倒産へと転がり落ちた起死回生策の逆回転
企業の倒産には過去にさかのぼってここがターニング・ポイントだった、と言える瞬間がある。3月31日に民事再生法の適用を申請した関東食研の場合、2019年夏の時点で多くの関係者がその予兆を感じていた。
同社は1998年5月の設立で、清涼飲料水や菓子類、健康食品などの研究開発支援、コンサルティングを行っていた。自社では生産設備を持たない代わり、さまざまな食品加工会社とのネットワークを有するファブレス企業であり、商品開発力こそが同社の競争力の源泉となっていた。
もっとも、ピークとなる08年11月期の年売上高41億円に対し、19年11月期の年売上高は17億円と半分以下にとどまっている。これは、設立以来の強みとなっていた代表の出身母体である最大得意先との関係性が年々薄れ、受注が減少していったこと。頼みの商品開発力も競合が激化するなか陳腐化が避けられず、業績が下降線をたどるなかで中核社員の流出も相次いだこと。これらの悪循環のなかで、取引条件も次第に悪化していったこと、などが要因として挙げられる。
会社側が企図した起死回生策は自前の製造設備、すなわちカンボジア工場の建設であった。しかし、これは散々な結果を迎える。17年夏に着工し、18年夏に完成したが生産工程でトラブルが頻発し歩留まりは上がらず、ついに倒産するまでフル稼働することはなかった。並行して進めていた新商品の開発も不振で、資金繰りは一気に悪化することになる。
19年夏、同社は金融機関に返済のリスケジュールを申請したが、この時点ですでに同社の再建を支援しようという雰囲気ではなくなっており、半ば見切りをつけられていた。あくまで結果論ではあるけれど、振り返れば新工場、新商品の無謀な積極策を打ち出した17年夏が同社の分岐点だったと言える。唯一救いがあるとすれば、商品開発力を評価したスポンサー企業が内定していることだろう。
(文=帝国データバンク情報部)