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【追悼2018】経営者たちは後世に何を残したか

 2018年も暮れようとしている。今年、日本経済の発展に尽力した経済・産業界の著名人たちが亡くなられた。ご冥福をお祈りします(肩書は当時の各社・各団体による。一部18年初頭に公にされた17年死去者を掲載)。

元経団連会長、元住友化学会長・社長 米倉弘昌さん


「技術開発こそが日本が生き残る唯一の道だ」―。2011年の東日本大震災後、すっかり元気を失った日本企業をこう鼓舞した。学者肌の経営者。入社5年目に米デューク大学に留学したが、帰国時には大学に残るよう要請されたほど。「朝日がさんさんと輝く日本を取り戻したい」。就任早々に打ち出した「サンライズ・レポート」は秀逸だった。
(11月16日死去 81歳)

元運輸次官、JR東日本初代社長 住田正二さん


戦後の“三大改革”の一つである国鉄改革を成功に導いた功労者。元運輸(現国土交通)官僚ながら、経営者のセンスも持ち合わせ、キャッシュフロー経営を先んじて実践。JR東日本の経営基盤を構築した。国鉄再建監理委員会では分割民営化の具体策づくりに尽力。当初、分割に躊躇(ちゅうちょ)する運輸省(現国交省)を抑え込むなど豪腕ぶりを発揮した。
(17年12月20日死去 95歳)

元トヨタ自動車社長、元日本自動車工業会会長 豊田達郎さん


悲運の経営者だった。米ニューヨーク大学で経営学修士を取得し、トヨタ自動車と米ゼネラルモーターズの合弁会社NUMMIの初代社長を務めるなど、屈指の海外通。1990年代初めの日米自動車摩擦では、トヨタ社長と自工会会長の立場で陣頭指揮した。一段落した95年、悲願の中国事業を成功させるべく訪中した直後に倒れ、一線を退いた。
(17年12月30日死去 88歳)

元カシオ計算機会長・社長 樫尾和雄さん


カシオ計算機の創業者である樫尾4兄弟の三男。3代目社長として1988年から27年間の長きにわたり陣頭指揮を執った。パーソナル電卓「カシオミニ」、耐衝撃腕時計「Gショック」などの開発を主導。95年にはデジタルカメラの祖ともいえる業界初のヒット商品「QV―10」を世に送り出し、画像コミュニケーション時代の扉を開いた。
(6月18日死去 89歳)

元大蔵次官、元日本たばこ産業社長、元東京証券取引所理事長 長岡實さん


大蔵省(現財務省)の事務次官を務め、退官後も省内はもとより政財界に人脈を築いたことから「大蔵のドン」と呼ばれた。その後、日本専売公社(現日本たばこ産業)最後の総裁となり、民営化に奔走。東京証券取引所理事長時代は、バブル崩壊や損失補填の証券不祥事による株式市場不信に対処するなど、戦後の日本経済の重大局面に立ち会った。
(4月2日死去 93歳)

元大蔵次官、元日銀総裁 松下康雄さん


どちらかといえば調整型のリーダーだった。それでも大きな決断を求められる局面がたびたびあった。大蔵省(現財務省)事務次官を務めた後、太陽神戸銀行の頭取として、三井銀行(両行とも現三井住友銀行)との合併を決めた。1994年に日銀総裁に就任。97年の山一証券の破綻処理をめぐり政府と日銀が揺れた際、日銀特別融資実施を決断した。
(7月20日死去 92歳)

ユニ・チャーム創業者、取締役ファウンダー 高原慶一朗さん


29歳で大成化工(現ユニ・チャーム)を創業。女性の生理用品や紙おむつなど独創的な技術や商品を開発し、ヘルスケアからペットケアまで手がける大企業に育て上げた。ニュービジネス協議会会長を務めた後、財界活動の場を経団連に移した。基盤産業中心の財界で、生活産業を語る貴重な存在だった。温厚で面倒見のいい性格でも慕われた。
(10月3日死去 87歳)

ソディック創業者、取締役名誉会長 古川利彦さん


1965年に世界初の電源無消耗回路を発明。この技術を“核”にリニアモーターなどを開発。放電加工機のトップクラスに発展させた。「お客さまの要望に応える製品を作るためならば苦労をいとわず課題を克服する」を信条に「一生懸命、努力をすれば、解決の糸口が必ず見いだせる」と部下を励ました。放電加工機の開発に生涯をささげた人だった。
(7月6日死去 78歳)

浜松ホトニクス名誉会長、元会長・社長 晝馬輝夫さん


浜松ホトニクス創設メンバーの一人で、光技術の世界的企業に育て上げた。ニュートリノなど、ノーベル賞につながる発見に光技術で貢献。厳しい言葉の中にも常にユーモアと愛嬌(あいきょう)を忘れず。「できないと言わずにやってみろ」が口癖で、“人類未知未踏”を生涯追い求めた。
(3月29日死去 91歳)

村田製作所名誉相談役、前会長・社長 村田泰隆さん


データに基づいた科学的管理を重視した。創業者の故村田昭氏の長男で、1991年に2代目社長に就任。携帯電話の普及を見据えたコンデンサーの小型化推進や海外展開に注力し、世界的な電子部品メーカーに育てた。個展を開くほどのチョウの写真家でもあった。
(9月28日死去 71歳)

JXTGホールディングス名誉顧問 清水康行さん


1961年に日本鉱業入社。日鉱金属会長として02年、ジャパンエナジーとの統合持ち株会社である新日鉱ホールディングス設立を主導した。10年には同社会長として、新日本石油との経営統合によるJXホールディングス発足に貢献。現JXTGグループの礎を築いた。
(7月24日死去 79歳)

2008年ノーベル化学賞受賞者 下村脩さん


1960年代、留学先の米国でオワンクラゲから緑色蛍光たんぱく質(GFP)を分離し、発光メカニズムの解明に成功。この研究成果により2008年のノーベル化学賞を受賞した。GFP発見の背景には、大量のオワンクラゲを収集して解析する地道な研究活動があった。
(10月19日死去 90歳)

元三菱電機社長 北岡隆さん


1955年に三菱電機に入社し、電子デバイス事業本部長などを経て92年に社長に就任。社長在任中は、IT化の進展を予見し、半導体やコンピューターなど重電以外の部門強化を掲げた。海外販売体制や研究開発体制も見直し、同社発展の礎を築いた。経団連副会長も務めた。
(1月30日死去 87歳)

元東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)会長・社長 樋口公啓さん


社長時代の1998年に保険料率が自由化された。静観する同業他社が「東京海上」の出方に注目する中、人身傷害補償を付加し、独自の保険料を設定した自動車保険の新商品を発売して周囲をあっと言わせた。業界内のあつれきや監督官庁との波紋を恐れない信念の人だった。
(10月16日死去 82歳)

IDEC名誉会長、創業者、元会長・社長 舩木恒雄さん


電気機器販売の個人経営から発展させ、開閉器などを手がける和泉電気(現IDEC)を1947年に実兄らとともに設立。76年に社長に就き、制御機器の総合メーカーとしてグローバルに飛躍する礎を築いた。日本電気制御機器工業会の会長も務めた。
(4月25日死去 101歳)

元東北大学総長 西澤潤一さん


半導体の研究で大きな業績を挙げ、「ミスター半導体」や「半導体の父」と呼ばれた。その他にも光ファイバーによる光通信など世界的な発明、開発を成し遂げた。1981年には日刊工業新聞社から『闘う独創技術』を出版。その後の“闘う研究者”のイメージを定着させた。
(10月21日死去 92歳)
日刊工業新聞2018年12月26日

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